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マルクス主義と唯物論
マルクスしゅぎとゆいぶつろん
作品ID46226
著者三木 清
文字遣い新字新仮名
底本 「現代日本思想大系33」 筑摩書房
1966(昭和41)年5月30日
初出「思想」1927(昭和2)年8月号
入力者文子
校正者川山隆
公開 / 更新2011-11-16 / 2014-09-16
長さの目安約 44 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 言葉は魔術的なはたらきをする。或る人々にとっては、唯物論の名は、すでに最初から何かいかがわしいもの、汚らわしいものを暗示する。彼らはその名を聞くとき、肩をゆすぶり、十字を切って去り、それを真面目に相手にすることをさえ、何か為すまじき卑しきことであると考える。それにもかかわらず自己の唯物論として憚るところなく主張するマルクス主義は、もはや誰も見逃すことの出来ぬ現実の勢力である。一般に現実を回避することによって思想の高貴さを示そうとする者は、ただ単に然か自己を粧うのみであり、かえってたまたま彼の思索の怯懦と怠慢とを暴露するにほかならない。かつて哲学はフランス革命に対する感激によって著しい進展を遂げたように、今はまたそれは何らかの仕方でマルクス主義と交わることによって、恐らく現在の無生産的なる状態を脱し得るであろう。マルクス主義はそれ自身多岐多様なる意味において語られる唯物論の長い歴史の列に属している。人々はこれに特に近代的唯物論の名を負わせている。このとき冠せられた近代的とは正確には何をいうのであるか。マルクス主義はそのいかなる構成の故に、そもそも唯物論として自己を規定するのであろうか。
 この問を正しく捉えようとする者は、唯物論の名とともに不幸にも最もしばしば連想されているところの、一は理論的見解に関する、他は実践的態度に関する、唯物論のかの二つの形態を遠くに追い退けておかねばならない。マルクス主義は第一に生理学的唯物論ではない。それは意識の現象が脳髄の物質的構造そのものから導き出され、もしくは思想が、あたかも尿が腎臓から排泄されるように、人間の脳髄から分泌されるというがごときことを説くものではない。かくのごとき唯物論は、それをマルクスが形而上学的と銘打って排斥した当のものである。ところでまたマルクス主義は第二に倫理学的唯物論でもない。それは人間の一切の行為を物質的欲望の満足と個人的幸福の追求とに従属せしめようという主張ではないのである。マルクスはこのような快楽主義的、功利主義的思想に対して手酷しい攻撃を加えており、それについてはつねに侮蔑と憎悪とをもって語っている。
 十八世紀風の、粗雑なる、粗野なる唯物論が退けられた後に、我々はまずいかにして、マルクス主義的唯物論のために、現実の地盤を獲得すべきであろうか。我々はすでに、唯物史観の構造を規定する人間学が、プロレタリア的基礎経験の上に立っていることを論述した。したがって近代的唯物論がまた実に近代的無産者的基礎経験のうちにその理論の具体的なる根源を有するということを明白ならしめることが、我々の現在の課題でなければならぬであろう。私はこの課せられた問題を十分に解決し得ることを期待する。
 私の意味する基礎経験とは現実の存在の構造の全体である。現実の存在はつねに歴史的必然的に限定された一定の構造的連関におい…

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