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巨像を彫るもの
きょぞうをほるもの
作品ID46275
著者中井 正一
文字遣い新字新仮名
底本 「論理とその実践――組織論から図書館像へ――」 てんびん社
1972(昭和47)年11月20日
初出「土」1951(昭和26)年4月
入力者鈴木厚司
校正者染川隆俊
公開 / 更新2007-12-01 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 これまで、誰でも図書館とは、寂かな、がらんとした庫のようなシーンとした、け押されるような感じのところとなっていたのである。そこには古い本があればあるほど、威張れたのである。また、その量が十万冊、百万冊と多ければ多いほど、また誇りとされたのである。そして、それは人を威圧するような円天井があって、学問の尊厳があたりを払うようなこころもちが、どうしても欠くことのできない条件となっていたのである。大英博物館の図書館、ローマのヴァチカンの図書館はその宮殿の威厳をもってあたりを払っているのである。すると、それに右にならってアメリカの国会図書館ですら、その旧館は、わざわざ円天井を造って、その下に申し合わせたように、カード箱を置いているのである。
 ちょうどこれは、図書館が、これまで東洋でお経堂にはじまるように、教会の教義を書いた図書館が、その始めのすがたを中世紀に見せたことによったに違いない。中世紀の図書館には、その本がなくならないために、本を鎖でつないであって、鎖の図書館チェーン・ライブラリーなるものがあったのである。
 しかるに、二十世紀に入って、町人が大いに威張り出してからは、世の中は威厳に対して、反感をもち、その臭いのするものは、「野暮」なものであり、それを脱したものが「意気」「粋」であると考えたのである。この時代が完成されて来ると、図書館なるものも、只威張っていることができなくなって来た。ベンジャミン・フランクリンが作ったところの、自分達の本をもちよって、それを読む図書館のようなものは、威張るどころか、喫茶室のようなこころもちのものを要求したにちがいない。
 町々にある喫茶室のような図書館は、二十世紀の前半が要求し、やがて全世界に拡っていった図書館の考え方なのである。この喫茶室の図書館はそれが大きくなるにつれて、百貨店のような図書館、工場のような図書館にと発展していったのである。本はそこではエレベーターや、圧搾空気の管を通って、一瞬間に読者のところに飛び出してゆくといった機械構造の中に、図書館が組立てられてゆくのである。フランスの国民図書館や、アメリカの国会図書館のように、機械工場のように内部がなっているのである。注文があって二分乃至七分で、国会図書館から数十間はなれている議員の眼前に、空気管を通って飛び出して来ることとなっているのである。それは、百貨店や、大新聞や大工場がやっていることである。
 これが一九五〇年の段階の図書館である。
 ところが、アメリカで起った一つの試みであるが、この大工場のような図書館が、只一つずつそびえ立って威張るのではなくして、民族を単位として、或いは、世界人類全体を単位として、凡ての図書館が大きな組織体となって、お互いの本のおぎないをし、カードを共通にし、その地方地方の特徴を生かし、また特殊性を生かしあって、組合って、大構造の図書…

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