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続狗尾録
ぞくくびろく |
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作品ID | 46285 |
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著者 | 狩野 直喜 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「支那學文藪」 みすず書房 1973(昭和48)年4月2日 |
初出 | 「藝文 第五年第二號、第三號、第拾壹號」1914(大正3)年 |
入力者 | はまなかひとし |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2011-02-04 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 30 ページ(500字/頁で計算) |
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一
自分は一昨年の秋から、昨年の十月に懸け、一年間餘歐洲諸國を遊歴し、其傍巴里・倫敦・伯林・聖彼得堡等の國都で、先般燉煌及支那の西陲から發見されて、一時斯學界を賑はした、漢代の木簡、及び[#挿絵]に書いた漢人の尺牘、六朝及び唐代の舊抄卷子本やら、且つ古抄本の一部を筆録して歸つた。又同時に歐洲に名高き支那學者の門を叩きて、其緒論を聽き、支那學を一科目と立てある大學若しくは東洋語學校などゝ名の附く所は、必ず參觀して、支那に關する各般の研究が如何に行はれつゝあるかを見て尠なからぬ利益を得たが、以下歐洲に於ける支那學の現状を國に順うて略敍して見たいと思ふ。
佛國 公平にいつて、將來はいざ知らず、過去及現在に於いて、支那學の最も盛んなるは佛國であらうと思ふ。尤獨逸でも、伯林大學に『デ・ホロート教授』(Prof. Dr. De Groot)大學附屬東洋語學校支那語科に『フヲルケ教授』(Prof.Dr.Forke)ハムブルグ殖民學院に『フランケ教授』(Prof. Dr. Franke)ライプチヒ大學にドクロル・コンラデ(Dr. Conrady)氏等あつて熱心に研究をやつて居り、又彼得堡大學にも昨年正教授に榮陞したイワノフ(Prof. Dr. Ivanow)や助教授アレキシエーフ(Alexief)など少壯有爲の人達が居て、將來歐洲に於ける支那學は、種々の點より露獨兩國が他國を凌駕するやうにならぬとも限らぬと思ふが、兎も角今日までの處では、佛國が斯學に於て覇權を握つて居る。それは如何なる理由かといふに、必竟歐洲に於て佛國人が最も早く支那の文學宗教言語の研究をやつた、佛國が支那學研究の最も古き歴史を有するからである。其一例として歐洲諸國の大學で、支那學の講座を一番先きに置いたのは、何處かといふに、自分の寡聞を以てすると、彼のコルレヂ・ド・フランスでアベル・レミュサ(Abel R[#挿絵]musat 1788-1832)が最初の支那學教授として同校の校堂で就任演説をしたのは實に紀元一千八百十五年正月十六日の事で(一)、即ち今を距る九十九年前、佛國の大學では已に支那學專門の教授が居たのである。飜つて英獨露諸國の大學は何如であるかといふと、英國牛津大學でかの支那學の老兵ゼームス・レツグ(James Legge 1815-1897)の爲めに、支那學の講座が設けられたのは、やつと紀元一千八百七十六年で(二)、又同じく八十八年に(三)ケムブリチ大學でトーマス・ウ※[#小書き片仮名ヰ、192-9]ード(Sir Thomas Wade 1818-1895)が支那學最初の講座を充たした、獨逸ではウ※[#小書き片仮名ヰ、192-10]ルヘルム・ショツト(Wilhelm Schott 1807-1889)ゲヲルグ・フ※[#小書き片仮名ヲ、192-11]ン・デル・ガベレンツ(Georg von …