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マグノリアの木
マグノリアのき
作品ID463
著者宮沢 賢治
文字遣い新字新仮名
底本 「風の又三郎」 角川文庫、角川書店
1996(平成8)年6月25日
入力者浜野智
校正者浜野智
公開 / 更新1999-01-31 / 2023-07-08
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 霧がじめじめ降っていた。
 諒安は、その霧の底をひとり、険しい山谷の、刻みを渉って行きました。
 沓の底を半分踏み抜いてしまいながらそのいちばん高い処からいちばん暗い深いところへまたその谷の底から霧に吸いこまれた次の峯へと一生けんめい伝って行きました。
 もしもほんの少しのはり合で霧を泳いで行くことができたら一つの峯から次の巌へずいぶん雑作もなく行けるのだが私はやっぱりこの意地悪い大きな彫刻の表面に沿ってけわしい処ではからだが燃えるようになり少しの平らなところではほっと息をつきながら地面を這わなければならないと諒安は思いました。
 全く峯にはまっ黒のガツガツした巌が冷たい霧を吹いてそらうそぶき折角いっしんに登って行ってもまるでよるべもなくさびしいのでした。
 それから谷の深い処には細かなうすぐろい灌木がぎっしり生えて光を通すことさえも慳貪そうに見えました。
 それでも諒安は次から次とそのひどい刻みをひとりわたって行きました。
 何べんも何べんも霧がふっと明るくなりまたうすくらくなりました。
 けれども光は淡く白く痛く、いつまでたっても夜にならないようでした。
 つやつや光る竜の髯のいちめん生えた少しのなだらに来たとき諒安はからだを投げるようにしてとろとろ睡ってしまいました。
(これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色なのだよ。)
 誰かが、或いは諒安自身が、耳の近くで何べんも斯う叫んでいました。
(そうです。そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕方がないのです。)諒安はうとうと斯う返事しました。
(これはこれ
  惑う木立の
   中ならず
 しのびをならう
  春の道場)
 どこからかこんな声がはっきり聞えて来ました。諒安は眼をひらきました。霧がからだにつめたく浸み込むのでした。
 全く霧は白く痛く竜の髯の青い傾斜はその中にぼんやりかすんで行きました。諒安はとっととかけ下りました。
 そしてたちまち一本の灌木に足をつかまれて投げ出すように倒れました。
 諒安はにが笑いをしながら起きあがりました。
 いきなり険しい灌木の崖が目の前に出ました。
 諒安はそのくろもじの枝にとりついてのぼりました。くろもじはかすかな匂を霧に送り霧は俄かに乳いろの柔らかなやさしいものを諒安によこしました。
 諒安はよじのぼりながら笑いました。
 その時霧は大へん陰気になりました。そこで諒安は霧にそのかすかな笑いを投げました。そこで霧はさっと明るくなりました。
 そして諒安はとうとう一つの平らな枯草の頂上に立ちました。
 そこは少し黄金いろでほっとあたたかなような気がしました。
 諒安は自分のからだから少しの汗の匂いが細い糸のようになって霧の中へ騰って行くのを思いました。その汗という考から一…

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