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かお
作品ID46365
著者高村 光太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集第4巻」 小学館
1989(平成元)年4月1日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2007-01-10 / 2014-09-18
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 顔は誰でもごまかせない。顔ほど正直な看板はない。顔をまる出しにして往来を歩いている事であるから、人は一切のごまかしを観念してしまうより外ない。いくら化けたつもりでも化ければ化けるほど、うまく化けたという事が見えるだけである。一切合切投げ出してしまうのが一番だ。それが一番美しい。顔ほど微妙に其人の内面を語るものはない。性情から、人格から、生活から、精神の高低から、叡智の明暗から、何から何まで顔に書かれる。閻羅大王の処に行くと見る眼かぐ鼻が居たり浄玻璃の鏡があって、人間の魂を皆映し出すという。しかしそんな遠い処まで行かずとも、めいめいの顔がその浄玻璃の鏡である。寸分の相違もなく自分の持つあらゆるものを映し出しているのは、考えてみると当然の事であるが、又考えてみるとよくも出来ているものだと感嘆する。仙人じみた風貌をしていて内心俗っぽい者は、やはり仙人じみていて内心俗っぽい顔をしている。がりがりな慾張でいながら案外人情の厚い者は、やはりがりがりでいて人情の厚い顔をしている。まじめな熱誠なようでいて感情に無理のあるものは、やはり無理のある顔をしている。お山の大将はお山の大将、卑屈は卑屈。争われない。だから孔子や釈迦や基督の顔がどんなに美しいものであったかという事だけは想像が出来る。言う迄もなく顔の美しさは容色の美しさではない。容色だけ一寸美しく見える事もあるが、真に内から美しいのか、偶然目鼻立が好いのかはすぐ露れる。世間並に言って醜悪な顔立に何とも言えない美しさが出て居たり、弁天様のような顔に卑しいものが出て居たり、万人万様で、結局「思無邪」の顔が一番ありがたい。自分なども自画像を描く度にまだだなあと思う。顔の事を考えると神様の前へ立つようで恐ろしくもあり又一切自分を投出してしまうより為方のない心安さも感じられる。



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