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日本ライン
にほんライン |
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作品ID | 4639 |
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著者 | 北原 白秋 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「現代日本紀行文学全集 中部日本編」 ほるぷ出版 1976(昭和51)年8月1日 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 浅原庸子 |
公開 / 更新 | 2004-05-23 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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1
舟は遡る。この高瀬舟の船尾には赤の枠に黒で彩雲閣と奔放に染め出したフラフが翻つてゐる。前に棹さすのが一人、後に櫓を榜ぐのが一人、客は私と案内役の名鉄のM君である。私は今日初めて明るい紫紺に金釦の上衣を引つかけてみた。藍鼠の大柄のスボンの、このゴルフの服は些か華美過ぎて市中は歩かれなかつた。だが、この鮮麗な大河の風色と熾烈な日光の中では決して不調和ではない。私は南国の大きい水禽のやうに碧流を遡るのだ。
爽快である。それに泡だつコップのビール、枝豆の緑、はためく白いテントの反射光だ。
五日の午後一時、昨日すさまじい濁流はいくらか青みを冴え立たして来たが、一旦激増した水量はなかなかひきさうに見えない。だが、裸の子供が飛び込む飛び込む。燦々たる岩の群とごろた石との河原だ。その両岸のいきるるいきるる雑草の花だ。
泳げよ泳げ。
左は楊と稚松と雑木の緑と鬱とした青とで野趣そのままであるが、遊園地側の白い道路は直立した細い赤松の竝木が続いて、一二の氷店や西洋料理亭の煩雑な色彩が畸形な三角の旅館と白い大鉄橋風景の右袂に仕切られる。鉄橋を潜ると、左が石頭山、俗に城山である。その洞門のうがたれつつある巌壁の前には黄の菰莚、バラック、鶴嘴、印半纒、小舟が一二艘、爆音、爆音、爆音である。
と、それから、人造石の樺と白との迫持や角柱ばかし目だつた、俗悪な無用の贅を凝らした大洋館があたりの均斉を突如として破つて見えて来る。
「や、あれはなんです。」
「京都のモスリン会社の別荘で。」とM君が枝豆をつかむ。
「悪趣味だな。」
だが、ここまでである。それより上は全くの神斧鬼鑿の蘇川峡となるのだ。彩雲閣から僅に五六丁足らずで、早くも人寰を離れ、俗塵の濁りを留めないところ、峻峭相連らなつて少からず目を聳たしめる。いはゆる日本ラインの特色はここにある。
日は光り、屋形の、三角帆の、赤の、青のフラフの遊覧船が三々五々と私たちの前を行くのだ。
遡流は氷室山の麓を赤松の林と断崖のほそぼそした嶮道に沿つて右へ右へと寄るのが法とみえる。「これが犬帰でなも。」と後から赤銅の声がする。
烏帽子岩、風戻、大梯子、そこでこの犬帰の石門、遮陽石といふのださうな。
「ほれ、あの屋根が鳥瞰図を描くYさんのお宅ですよ。」
幽邃な繁りである。蝉、蝉、蝉。つくつくほうし。
「この高い山は。」
「継鹿尾山、寂光院といふ寺があります。不老の滝といふのもありますが下つて御覧になりますか。」
「いや、ぐんぐんのぼらう。」
風が涼しい。潭は澄み、碧流は渦巻く。紫紺の水禽は遡る、遡る。
「あれが不老閣。」
「閑静だなも。」
と、これより先き、中流に中岩といふのがあつた。振り返ると、いつになく左後ろ斜めに岩と岩と白い飛沫をあげてゐる。
それから千尺の翠巒と断崖は浣華渓となるのである。
波、波、波、…