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雪
ゆき |
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作品ID | 46420 |
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著者 | 中井 正一 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「暮しの手帖 第十五号」 暮しの手帖社 1952(昭和27)年3月1日 |
初出 | 「暮しの手帖 第十五号」暮しの手帖社、1952(昭和27)年3月1日 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2007-07-07 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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朝から、空は暗く、チラチラ窓のふちから、雪が散りこぼれて來た。
もうすでに六十日、これから何百日ゐるかわからない留置場で、私は、この雪をめづらしい外からまぎれ込んだ、自由の世界から入つて來てくれたものゝ樣な感じで今更のやうにみつめたのであつた。
一つ一つ、きれいな結晶をしてゐた。纖細をきはめたかぼそい線ではあつたが、一つ一つが數へられる美しさでからみ合つた、精密をきはめた機構をもつてゐた。
次から次にこぼれ落ちる雪の、どの一片一片もが、一つ一つ宮殿の一部だと云つていゝほどの複雜な構成をもつてゐた。
私はもう一度、暗い空を見上げた。
暗い暗い空は、一杯の雪をはこんで、重い移動の樣に、壓するものをもつてゐた。
私は、あの一つ一つが、この精密な結晶をもつて、あの大空の奧から湧いて來るのだと思ふとき何か愕然たる驚きに搏たれた。
二万尺の大空の高さで、一厘の狂ひもない正確さで結晶したこの水滴の一つ一つが、こんなに澤山、こんなに空に滿ち滿ちて落ちて來てゐることが、恐ろしいほど不思議なことの樣に思へて來た。
この存在の中にある、深い秩序を、この覆ひかぶさつて來る暗い白いものゝ移動がかくしもつてゐる。
私は、このみちみちた精密をきはめた秩序に、みるみるうちに壓倒せられる思ひであつた。
この六十日、合理、理論の合理にのみ身をよせて、抗辯したにもかゝはらず、戰爭に反對したことより以外に何の證據もないのに、打たれたり蹴られたりしてゐる自分にとつて、この雪の中に、又大空にみちみちてゐるこの秩序は、泌透る樣にこゝろを刺貫くものをもつてゐた。
南京が陷ちたと云つて昨夜は外は騷しかつた。しかし支那事變は長期となり、やがて世界戰となり或は毒ガス細菌戰に轉移するから、絶對に反對すると云ひつゞけた自分としては、何れ何處かで、自分の死にまで連續してゐるこの度の戰に、せめて反對したことだけを滿ちたりる事としてゐたのであつた。
しかし、この雪を見てゐるうちに、私は深い憤りに身をふるはす思ひであつた。この充ち充ちてゐる秩序の中で、人間のこの秩序だけは、この一片の雪にだに、面と面をむけ得るものではないのだ。
この一片の雪に向つて、この私達の世界が顏むけならないのではないか。
雪は窓のふちに抛物線を描いて、だんだんつもつて行つた。
晝頃になつて、調室に出された私は、係官のT刑事に、
「この雪は二万尺の上から、一つ一つ結晶して落ちて來てゐるんです。この一片の雪よりも、私達の世界の方がみじめです」
と云つた。
刑事は、いつも、きつい目をしてにらみ据える人間だつたが、その時だけは、だまつて、窓に向つて歩いて行つて、じつと空をしばらく見上げてゐた。
その事があつてから、人間の愚劣に對する私の驚嘆は、日と共に深くなり、自分も同時に人間全体とすこしも變りなくその愚劣さ、氣障さ、た…