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![]() とばけのこども |
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作品ID | 4645 |
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著者 | 田畑 修一郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「筑摩現代文学大系 60 田畑修一郎 木山捷平 小沼丹集」 筑摩書房 1978(昭和53)年4月15日 |
初出 | 「文科」第4輯、1932(昭和7)年3月 |
入力者 | kompass |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2005-08-27 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 49 ページ(500字/頁で計算) |
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松根は五人目の軍治を生んだ時にはもう四十を越えてゐた。子供の間が遠くて、長女の民子はその時他へ嫁いでゐた位だつたが、男の児と云つては、長男の竜一が漸く小学校に上つた許りであり、次の昌平は悪戯盛りで、晩年のお産のためか軍治は発育が悪く、無事に育てばよいがと思はれる程だつた。
松根の身体もそれ以後めつきり弱つた。気管支が悪いと医者に注意されもしたし、雨の日など寝て過したりした。だが、弱つたのはお産のためばかりでもなかつた。神経質で、何から何まで気のつき過ぎるやうな性分が、もうそれまでにすつかり心身を費ひ果してしまつた所もあるのだつた。次女の卯女子はもう娘になりかゝつてゐたので、家の中の仕事などは、松根の指図を聞いただけで大体やつてのけた。母が以前のやうではなく懶気に身体を動かせて軍治の世話をするのを見ると、卯女子は仕掛けた仕事を止めても傍へ来て、軍治を自分の手に受取つたりした。それでゐて、するだけの事はてきぱきと片をつけるのだつた。そんな所は若い時分の母に似てゐた。
松根は気を許したとも見える様子で、時々訪ねて呉れる民子を相手に、立働いてゐる卯女子を見やり、これなら私がゐなくとも大丈夫だ、と、笑つたりした。
その民子が或る日、固い顔をしてやつて来た。
父と幾との噂を聞いたのだつた。苦々し気にそれを言つたのは舅の土井であつて、幾が中村屋と云ふ料理屋の女主人で、今はその母と二人暮の身であることは民子も知つてゐたが、真逆あの父が、と云ふ気がした。誰にたしかめてみると云ふ人もないので母の所に来てみたのだがそれらしい気振りもない母に対つて、其の事を言ひ出すわけには行かなかつた。別に話すこともなくなつたが、長いこと傍に坐つてゐた。卯女子のところへ行つてみたり、又、母の傍へ来たりした。終ひには、松根の方で、そんなにゆつくり構へこんでゐて土井の方はいゝのか、と言つた位だつた。
その時はそのまゝ帰つて来たが、噂が事実とすれば母の様子も落ちつき過ぎてゐるし、事実無根とすれば何かと耳に伝はることが多かつた。退職官吏で、家名とか、気品とか云ふ言葉を常々口にする舅の土井は、二度とそれを言ひはしなかつたが、時々、鳥羽家の様子を民子に訊き、遠廻しに不機嫌な意向をほのめかした。それが窮屈でもあり、又、父母のことが気になりもして、民子は土井家と鳥羽家との間を行つたり来たりしたが、日が経つにつれ、噂は失張り事実であること、母は何もかも知り抜いてゐて、故意と気のつかない風を装つてゐることなどが、朧気に少しづつのみこめて来た。
松根は其の後も民子に対つては一言もそれに触れなかつた。それに押されて此方で黙つてゐると、民子は不意に腹が立つたりした。何時言ひ出さうか、と思つてゐる中に、母が殊更のやうにこの頃幾と親しくし始めたのが眼についた。天気のいゝ日など、行つてみると卯女子がゐるだけで、訊い…