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半農生活者の群に入るまで
はんのうせいかつしゃのむれにはいるまで |
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作品ID | 46456 |
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著者 | 石川 三四郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「石川三四郎著作集第三巻」 青土社 1978(昭和53)年8月10日 |
初出 | 「読売新聞」1927(昭和2)年3月21日 |
入力者 | 田中敬三 |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2007-01-11 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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私が初めて自然と言ふものに憧憬を持ちはじめたのは、監獄の一室に閉じ込められた時のことである。ちようど今から二十二三年前の話で、――それ迄と言ふものは全く空気を呼吸してゐても空気と言ふものに何の感じもなく、自然と言ふものに対しても親しみをも感じ得なかつた。それが獄の一室にあつて以来は庭の片隅のすみれにも愛恋を感じ、桐にも花のあつたことを知り、其の美しい強い香にも親しみを感じたやうな理由で、自然と言ふものに深い感慨を感ずるやうになつたのである。
それと同時に私は思想上の悩みに逢着してゐた。それは私はキリスト教的精神と、社会主義的精神の不調和に挟まれてゐたのである。これを私は獄中で統一しやうと努力したが、エドワード・カーペンターの著書を読んで、自分の行くべき道を考へ得たのである。先づ私はその『文明論』を見た。そして次に、クロスビーの書いた「カーペンターの伝記」を読むだのである。カーペンターが山家の一軒家で生活してゐると言ふことを読んで、其の生活を知り、同時に其の思想に触れて、私の思想の上に大きな変化を与へて呉れた。
それから出獄してからなほ、内外の上の戦ひ――社会運動の戦ひや、貧乏の上の戦ひをせねばならなかつた。間もなく幸徳事件が起る、私共の生活は呼吸のつまるやうな生活であつた。それから私はある事情のもとに日本を脱出せねばならなくなつた。勿論、一文なしのことであるから、フランスの船に飛び込むで、ベルギーに行つたのである。そして、そこで私は労働生活を始めたのである。先づ行きたては百姓生活も出来ないで、ペンキ屋、つまり壁塗りを一ヶ月ばかりして、其後、室内装飾などをした。その内、機会を得て、英国にカーペンターの清らかなる百姓生活を見廻ることが出来た。さうかうしてゐる中に、ヨーロツパの大戦争が起つたのである。私は黄色人種であるので、七ヶ月間ブラツセルに籠城したが、後、オランダからイギリスに渡り、更にフランスに落ちのびたのである。其処で、以前から知つてゐた、ブラツセルの新大学教授で、無政府主義者ルクリユ氏の一族と共に百姓生活を始めたのである。
ルクリユ氏は非常に百姓生活に興味を持ち、私も共々、農業の本を読むだり、耕作したり、それはあらゆる種類のものを実地に研究したのである。私は此処で足掛け六年間の生活をしたのであるが、私の生涯中、これ程感激に満ちた幸福な生活はこれ迄なかつた。
あの欧州戦争の結果、従来の社会組織、経済組織が根本的に狂つてしまつて人間の生活が赤裸々になつた時に、真実な生活そのものがハツキリと目の前に残され、あらゆる虚偽の生活、幻影を追つた生活が全く覆へされ、真の人間生活がヒシ/\とわかつて、百姓ほど強いものはないと言ふ事、真に強い土台になつたものは百姓であることがわかつた。権力や組織に依つて生活を維持してゐた人は全く足場を失つて、非常な窮状に落ち入つ…