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ウンベルト夫人の財産
ウンベルトふじんのざいさん
作品ID46460
著者牧 逸馬
文字遣い新字新仮名
底本 「世界怪奇実話Ⅰ」 桃源社
1969(昭和44)年10月1日
初出「中央公論 第四十五年第二~三號五百五~五百六號」中央公論社、1930(昭和5)年2月1日、3月1日
入力者A子
校正者mt.battie
公開 / 更新2025-01-17 / 2025-01-16
長さの目安約 38 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 重苦しい八月の太陽が巴里を押しつけていた。ウイリアム・ル・キュウ氏は、サラ・ベルナアルの招待を受けて、巴里郊外アンジャン・レ・バンの湖岸に建っているサラの別荘の午餐会へ出かけて行った。別荘は大きな白※[#「亜/土」、56-下-6]の影を静かな湖面に落として、遠くからは上下につながって二倍に見えていた。
 食堂の開かれる前ル・キュウ氏は、同じく招かれて来ていた二人の紳士と、マリイ・ドルニヤックという、髪の毛の黒い、活発な少女と一緒に、景勝の地として有名なその湖上にボウトを浮かべて時間を消した。ル・キュウ氏は、その二、三個月前に、トゥルに近い知人の家でこのマリイ・ドルニヤックに紹介されて、顔見識りの間柄だったのだ。サロンのヴェランダから、美しい芝生の傾斜が湖に続いていた。四人は同じ汽車で巴里から来て、すこし早く着き過ぎていたので、食堂があいて呼び込まれるまでボウトを漕ぎ廻った。
 ウイリアム・タフネル・ル・キュウは、有名な英国の老大衆作家だ。小説家として亦旅行家として広く知られていて、多くの冒険並びに探偵物の作品があり、「モンテ・カアロの秘密」、「勝利への道」等、今では些か古いが、彼の得意とする密偵ものなど、一頃は日本でも、可成り愛読されたもので、探偵小説の読者には、懐しい響きを持つ名前である。
 食卓でル・キュウは、古くからの相識であるゾラ夫人と並んだ。エミル・ゾラの夫人だ。ゾラが晩年に近い頃だから、――ゾラの死んだのは一九〇二年――この話しはそんなに古いことではない。一九〇〇年の八月だった。
 すると、ル・キュウの右側に、一人着飾り過ぎた、肥った婦人が坐っていて、何やかやとル・キュウに話しかけたのだが、正式に紹介されたわけではないし、それに、あまり人好きのするタイプでもなかったので、彼は、食事の合間に、いい加減に応対していた。その婦人は、何方かと言えば余り教養のない、智的でない人のようにル・キュウは観察した。言葉に田舎訛りがあった。のみならず、その田舎訛りの会話の到るところに、盛んに巴里人の通語を挟んで振り廻していた。妙にちぐはぐな効果だった。
 ゾラ夫人が、ル・キュウを越してその婦人に言った。
「まだこの方御紹介申し上げませんでしたわね。ウイリアム・ル・キュウさんです。宅のお友達ですの。矢張り作家の方でいらっしゃいます」
 夫人は、良人のエミル・ゾラのことを言うとき「愛するエミル」という言葉を使った。
 ル・キュウに対する婦人の態度は、忽ち変った。それは、単に食卓で並んだという形式的なものから、急に全身的な微笑と愛嬌への躍進だった。これがテレサ・ウンベルト夫人だった。が、ル・キュウは、夫人の名前を聞いても、何ら格別の興味も注意も呼び起しはしなかった。社交会の午餐では色んな人に会うのが常だし、ことにあの名女優サラ・ベルナアルの招待だから、各方面の一流…

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