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![]() いきているせんししゃ |
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作品ID | 46472 |
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著者 | 牧 逸馬 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「世界怪奇実話Ⅰ」 桃源社 1969(昭和44)年10月1日 |
入力者 | A子 |
校正者 | 林幸雄 |
公開 / 更新 | 2010-12-10 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 24 ページ(500字/頁で計算) |
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1
背の高い、物腰の柔かい上品な男だった。頭髪は黒く、頬骨が高くて、一見韃靼人の血が混っていることを思わせる剽悍な顔をしていた。一九一二年の春の初めである。匈牙利の首都ブダペストから四哩程離れた田舎に、ツインコタという風光明媚な避暑地がある。ちょっと週末旅行などにも好いところで、附近にはヴィスグラッド、ナジ・モロス、ブダフォックなんかと、名前は恐しげだが、景色の佳い遊覧地が沢山あって、ツインコタは丁度その中心になっているから、日曜は大変な人出だ。このツインコタ町へ、今いった見慣れぬ男が、若い綺麗な細君を伴れて首府のブダペストから移り住んで来ている。
名をベラ・キスと言って、四十歳位いだ。細君は十五程若かった。ツインコタ町の住宅地をあちこち探し廻った末、Matyasfold 街道に面したかなり大きな邸を借り受ける。前に広い庭があって、鳥渡周囲から切り離されたような家である。番地は、マテアスフォルト街一二九番、古城の趣を取り入れて屋根の尖った、灰色煉瓦の建物だった。ここで夫婦は、七個月ほど表面何事もなく、幸福に暮らしている。主人のベラ・キスは、一週に一、二回ブダペスト市へ出て行く。泊って来ることはなかった。相当手広くやっている錻力工場の所有主で、いまは実際の商売からは隠退しているという近所の評判である。
誰ともあまり親しく往来しないでいる。キスという男は、何処か不気味なところのある人物で、噂によると、いつも細君を相手に心霊学上の議論などを闘わしていたそうだ。天文学にも趣味があるらしく、書斎にはその方面の書物が充満していた。その影響でか、細君の Norma Kiss 夫人も万事神秘好みの女だった。ジプシイの占い婆さんか何かがよく硝子の玉に見入って、そこに人の運命を読み取ると称する。これを水晶判断と謂って、西洋の一部信者のあいだにはあらたかなものとされているが、ノルマも、拳大の硝子玉を大事にしていて、それを凝視めては、始終独り占いをしていた。夫婦仲も好く、常に自家用のがたがた自動車で一緒に出掛けていた。良人のベラ・キスがひとりでブダペストへ出る時も、その自動車を自分で運転して行った。
この匈牙利の錻力屋の親方、Bela Kiss こそは、いまだに欧羅巴第一の怪奇な存在と見られている。ちょっと過去に類がなく、しかも比較的最近の出来事であるが、その割りに知られていない。事件の当時、警察が全力を揮って揉み消したからだ。
ノルマ・キス夫人は非常な美人である。そのせいだろうか、良人のキスはひどい嫉妬焼きで、夫人に男の友達と親しくすることを厳禁している。匈牙利の南、ダニュウブ沿岸のツイモニイ地方は、昔から美人の産地で有名な処だ。ノルマはこの Zimony の生れで、美人でもあったがまたちょっと、浮気っぽい女だったに相違ない。ブダペストの画家で Paul Bihari…