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丹那山の怪
たんなやまのかい |
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作品ID | 46496 |
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著者 | 江見 水蔭 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「怪奇・伝奇時代小説選集11 妖艶の谷 他11編」 春陽文庫、春陽堂書店 2000(平成12)年8月20日 |
入力者 | 岡山勝美 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2006-11-19 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
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一
東海道は三島の宿。本陣世古六太夫の離れ座敷に、今宵の宿を定めたのは、定火消御役酒井内蔵助(五千石)の家臣、織部純之進という若武士で、それは酒井家の領地巡検使という役目を初めて承わり、飛地の伊豆は田方郡の諸村を見廻りの初旅というわけで、江戸からは若党一人と中間二人とを供に連れて来たのだが、箱根風越の伊豆相模の国境まで来ると、早くも領分諸村の庄屋、村役などが、大勢出迎えて、まるで殿様扱いにして了うのであった。
「出迎えの人数は?」と純之進は本陣に寛居ながら問うた。
「ええ、お出迎えにこれまでまいりましたのは、丹那、田代、軽井沢、畑、神益、浮橋、長崎、七ヶ村の者十一名にござりまする」と丹那の庄屋が一同を代表して答えた。
「おう、左様か。拙者箱根下山の際に、ちょっと数えて見たら、十二名のように見受けたが、それでは他の旅人まで数え込んだのであろう」と純之進は格別問題にしなかった。
「さて明日からは、草深い田舎を御巡検で、宿らしい宿は今宵が当分の御泊納め。どうか御ゆるりと」
庄屋達が既に主人役に廻り、吟味の酒肴を美しい飯盛女に運ばせて、歓待至らざる無しであった。
「や、拙者は酒は好まぬ。食事を取急ぐように」
純之進は江戸を立つ時に、先輩から注意されて来ているので。うッかり甘い顔を見せると、御馳走政略に載せられて、忽ち田畑の凶作を云い立て、年貢御猶予の願いと出て来る。その他いろいろ虫の好い願いを持出すから、決して油断は出来ぬという。それを胸に貯えているので、警戒を一層引締て掛ったのだ。
今度の巡検使は、厳しいか、緩やかなのか、領内の者が脈を引いて見るのは、最初の宿の三島という事に代々極っているのだが、純之進の態度が若きに似ず意外に厳格なので、これは一筋縄では行かぬと覚ったらしかった。
明くる日は駕かきの人足まで皆村方から出て来て、その外お供が非常に多かった。三島明神の一の鳥居前から、右に入って、市ヶ谷、中原、中島、大場と過ぎ、平井の里で昼食。それから二里の峠を越して、丹那の窪地に入った時には、お供が又殖えていた。役人はこわい者、機嫌を取っておかぬと後の祟りが恐ろしいという、そうしたその時代の百姓心理を、ゆくりなく初日から示したのであった。
丹那という土地は四方を高い山々で取囲まれていて、窪地の中央に水田があって、その周囲に農家がチラホラとあるに過ぎなかった。
けれどもここの旧家山田氏というのは、堂々たる邸宅を構え、白壁の長屋門、黒塗りの土蔵、遠くから望むと、さながら城廓の如くに見えるのであった。
ここにも村々から大勢出迎えていた。山田家の歓迎も一通りでなく、主人は紋服袴穿きで大玄関に出迎え、直ちに書院に案内して、先ず三宝に熨斗を載せて出して、着到を祝し、それから庄屋格だけを次の間に並列さして、改めてお目通りという様な形式に囚われた挨拶の…