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文学的自叙伝
ぶんがくてきじじょでん
作品ID4650
著者牧野 信一
文字遣い旧字旧仮名
底本 「「鬼涙村」復刻版」 沖積舎
1990(平成2)年11月5日
初出「新潮」1935(昭和10)年7月号
入力者地田尚
校正者小林繁雄
公開 / 更新2002-11-26 / 2014-09-17
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 父親からの迎へが來次第、アメリカへ渡るといふ覺悟を持たせられてゐて、私は小學校へ入る前後からカトリツク教會のケラアといふ先生に日常會話を習ひはじめてゐた。先生は日本語が殆んど不可能で、はじめは隨分困つたが、オルガンなどを教はつてゐるうちに私の英語と先生の日本語は略同程度にすすんだ。私は祖父から教會にあるやうな立派な燭臺やストツプのついたオルガンを買つて貰ひ、母親の琴と、六段や春雨を合奏した。電燈が點いて間もない頃だつたが祖父は電氣を怕がつて、行燈の傍らで獨酌しながら私達の合奏を聽き、醉が回つて來る時分になると、屹度、ほツほツほツとわらふやうな聲で泣いた。父親を知らぬ孫の巧みなオルガンの彈奏振りに感激するのであつた。ケラア先生は折々バイオリンを携へて私達を訪れた。祖父は鎖國思想の反キリスト教論者であつたが、そんな晩にはアメリカの息子が贈つて寄越したオイル・ラムプのシヤンデリアを燭して、最も簡單な意見を交換した。大體私が通譯官であつた。――私の父親は中學の課程からボストンに生活し、學生時代を終るとどういふわけで、また何んな程度の位置か知らなかつたが、電信技手となつて U.S.N.Stuckton なる水雷艇に乘つてゐた。造船所にも務めた。父の先輩や友人が乘つてゐる軍艦や汽船が横濱に着くといふ通知を受けると、山高帽子で紋付の羽織を着た祖父と私は人力車で國府津に出て汽車に乘つた。その度毎に私は父からの屆物であるといふ洋服や時計や望遠鏡や物語本などを貰つた。私はいつの間にか、少年雜誌のセント・ニコラスや、ニユーヨーク・タイムスのハツピーフリガン漫畫などを笑ひながら讀めるやうになつてゐた。然し渡航する機會もなく、祖父が歿くなつて、私が中學に入つた年に、父親は第一回の歸國をした。ところが私は、はじめて見る父親を何故か無性にバツを惡がつて一向口も利かうとしなかつた。とても今更空々しくつて、お父さん――などと呼びかけるのは想つても水を浴びるやうであつた、[#読点はママ]彼は、つまらぬつまらぬと滾して國府津の海岸寄りの方へ別居した。(述べ遲れたが、私の生地は神奈川縣小田原町である。)國府津町はその頃村で、東海道線に乘るためには電車で國府津へ向はなければならなかつた。自轉車に乘つて父のところへ遊びに行くと、いつもアメリカ人の友達が滯在してゐた。で私もそれらの家族伴れなどの人達に交つて、ピクニツクに加はつたり、凧をあげて見せたりするうちに、彼等と一緒になつて彼等の習慣の中であると、自然に父親とも親しめるやうになり、父と子は相對する場合でない限り、英語で口を利いた。私は、小學でも中學でも凡ゆる學科のうちで綴り方と作文が何よりも不得意で、幾度も〇點をとり、旅先などから母親にでも手紙が書き憎くかつたのであるが(母は私のハガキでも、私が戻るとそれを目の前に突きつけて、凡ゆる誤字文法を指摘…

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