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![]() ちんもくのとびら |
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作品ID | 46508 |
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著者 | 吉田 絃二郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻89 生命」 作品社 1998(平成10)年7月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2007-01-01 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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私の生活がどんなに苦しい時でも、私は「私が生まれなかつたら……」といふやうなことを考へたことは余りない。私自身の生活に対して、どれほど疑惑や失望を抱いてゐる際にでも、私は生まれたことを後悔するやうなことはない。少くとも生命を信愛しようとする心だけは失はずにゐる。
私が惑ふ時、私が悲しむ時、私は一層生命を劬はり、生命を信愛する心を覚える。もし私が自分で自分の生命を断つことがあるとしても、それは私が自分の生命を疎んじた結果ではなく、余りに生命に執着し、余りに生命を信愛せんとした心からであるにちがひない。私は私が自殺するほど真剣に私の生を想ひ、私の生命を突きつめて信愛することのできないことをもどかしく思ふ。生を信愛する心と、生命を断つ心とは、全然矛盾してゐるやうに見られるが、私にとつては矛盾してゐるとは考へられぬ。生を熱愛する私の感情と、生そのものゝ真実を攫まうとする私の理智とが絶えず相剋して、二つの間に溶けがたい隔りができる時、私は盲目的に生命を愛して行くか、或ひは自ら生命を断たなければならぬ境に入る。私は余りに愚かな私の理智を悲しむ。私の理智の眼が余りに力弱きものであることを悲しむ。しかも私は生命信愛の情に乏しいことを余り経験しない。殆んど生の信愛そのものが私の生命であり、生活であるやうにすら考へる。生きて行く現実から信愛の心を削つたならばその刹那に私の生活は滅びてしまふであらう。生命信愛――不断永劫の――はやがていのちの流れそのものではないか。私は何故に自己の生命を愛すべきかを知らない。しかし私は生命の信愛なしには一日も生きて居れない。智慧の実を食はなかつた時のアダムにも生命信愛の念はあつた。否な、かれは生命信愛そのものゝちからに動かされてのみ生存してゐたであらう。
生命信愛の念は人類にあたへられた本然的の意欲である。さらに押し拡げていへば、あらゆるいのちの表現の本然性である。栗の花はいのちの表現のために、微風に揺られつゝ生の信愛に顫いてゐる。庭前の梧桐も、百合も、アカシヤも一様に同じいのちの懐しさに顫いてゐる。
油のやうな大河の流れに六月の碧空が映る時、燕は軽やかな翅を羽叩いていのちの凱歌をたゝへてゐる。蘆の間の剖蘆も、草原の牝牛もいのちの信愛に輝けるいたいけな眼を瞬いてゐる。
草原のなかに突つ立つてゐる一本の樹に対して私は幾度か「友よ!」と声をかけて見たいと思つた。今も私は、時々森に入つては眠れるが如き立ち樹に対して、かれのたましひと物語つて見たいやうな気がする。眠れる銀杏樹のなかに、沈黙せる老樫のなかに、人間と人間との言葉が言ひ表はすことのできぬ不可思議な大きな力や、理智や、思ひやりがかくされてあるやうに想ふ。宇宙が造り出された劫初から、樹と樹とは物言ひ、鳥と鳥とは物語つてゐるであらう。それは人間の知らない、また人間の眼に見ることのできぬ世界…