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華厳滝
けごんのたき |
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作品ID | 4652 |
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著者 | 幸田 露伴 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「現代日本紀行文学全集 東日本編」 ほるぷ出版 1976(昭和51)年8月1日 |
初出 | 「東京日日新聞」1927(昭和2)年8月1日~8日 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2004-06-01 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 31 ページ(500字/頁で計算) |
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一
昭和二年七月の九日、午後一時過ぐるころ安成子の來車を受け、かねての約に從つて同乘して上野停車場へと向つた。日本八景の一と定められた華嚴の瀑布及びその附近景勝遊覽のためであつた。
二時五分の日光直行の汽車はわれ等二人を乘せてはしり出した。車窓の眺めは例によつて例の如しであるから退屈の餘りの時間を雜談に消すほかはなかつたが、安成子は職分に忠實なので、しきりに八景論を提出して老人の談話を引出さうとつとめる。景勝などといふものは論談の對象にするには聊か宜し過ぎるものであつて、山にしろ、水にしろ、たゞこれに打ち對つて怡然として神喜び心樂めばそれで宜いので、甲地乙地の比較をしたり上下をしたりするのは第二第三の餘計な事で、眞にいはゆる蛇足を畫くものであるから、ナアニ八景は勿論好いサ、二十五勝もまた勿論好いサ、百景の中へ入れられた地にも中々好いところが有るのサ位に片づけてしまつても、それでは先生承知しない、風景論の投繩を頻に投げ掛けて、野馬的に勝手氣隨に奔逸したがる老人の意馬の頭を主要問題の方に向はせようとする。とう/\八景の談に引張りこまれてしまつた。
一體八景といふのは隨分長い間の流行言葉であつて、何八景彼八景、しまひには吉原八景、辰巳八景とまで用ゐられて、ふけて逢ふ夜は寢てからさきのなぞと、イヤハヤ途轍も無い邊にまで利用されるに至つたほどであるが、最初はこれも矢張り支那文學美術すべて支那影響を受けた頃に起つたことである。八景といふ字面は唐あたりからある、イヤ景色に八ツを取立てゝいつたのは南齊の沈約の八詠樓など、或はもつと古いところにあるか知らぬが、金華の元暢樓に沈約が八篇の詩を題してその景色をほめたところから、後に八詠樓と人が呼んだ。李太白が金華開二八景一と吟じたのも即ちその八詠樓の事で、任華といふ男が太白に寄せた詩に、八詠樓中坦腹にして眠るといふ句のあるのも、即ち同じその元暢樓をいつたのである。又たゞ單に八景といふ字面は別にあるが、それは三元や三聖といふ言葉と對になるので、景色の事では無い、黄庭内景などといふ景の字と同じ意味に用ゐられたもので、人の身體に上部中部下部の八景がある。上部の八景は腦、髮、眼、耳、鼻、口、舌、齒であるといふのであつて、道家の語である。そんなことはどうでもよい。が、古い詩の句の八景といふのは、この道家の語の八景を知らぬと解がとゞかぬやうになる。今の何々八景といふのは、白石手簡に八景のはじめは宋人か元人かにて宋復古と申す畫工云々とあるが、それは夢溪筆談に出てゐる度支員外郎宋迪の事で、平沙落雁、遠浦歸帆、山中晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照、之を八景といつて得意の畫であつたといふのである。後の八景といふのがこれに基づいてゐることは疑はれない。美術天子の宋の徽宗皇帝が、張[#挿絵]といふ畫人をして舟に乘じて…