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想像と装飾の美
イマジネーションとそうしょくのび
作品ID46522
副題それを持つ特殊の個性によって生かさるべし
それをもつとくしゅのこせいによっていかさるべし
著者岸田 劉生
文字遣い新字新仮名
底本 「岸田劉生随筆集」 岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年8月20日
初出「国粋 第二号」1920(大正9)年11月
入力者鈴木厚司
校正者noriko saito
公開 / 更新2007-02-17 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 日本画を以て写実の道を歩こうとする事は根本から間違っている。日本画を以て写実を行うよりは駱駝の針の穴を通る方がやさしいといいたい位である。この意味で今日の新らしい日本画は殆ど皆駄目だ。物欲しそうな感じしか与えられない。
 写実の道を歩みたいのなら諸君の前には至極便利な油画具がもう五、六十年も前から輸入されてある。一度日本画具を使って日本画師として立った以上、その画の具にあくまで仕えなくてはならないような気もするのだろうが、そういう貞節は馬鹿々々しい。美術の事はもっと上の事、「美」に対して本当に仕える事を知るなら、この事はおのずとわかって来るはずである。今時まだ日本画の画具でどうしても写実を完成してみせると力む人もあるが、そういう人は画家ではなく発明家の部類に入るべき人で、もしその人が本当の美というものをリアルの上に見たならば、なんでいつまで表現に不自由な日本画の苦心を重ねる必要があるか、その人の内に燃える創作欲はそんな事しているまどろこしさに耐えるものではない。かかる事をいう人は畢竟「美」を知らぬ人で画家ではなく、うまく行って日本画具使用法改良研究者に属する人である。但しかくの如く、「美」を知らぬ人の「審美」によって出来た画具使用法が如何に改良されても、本当の画家にとって有難いものであるか否か、うけがわれない。
 しかしまた一方にはあれは写実ではないという人もあろう。無論本当の美術としての写美にはなっていない。物象の如実感が「美」にまで達していない。
 しかし或る人々がそれを写実ではないという意味とはちがう。或る人々は写実でなくてもう一つ別の芸術境であるといいたいのである。しかしそれは嘘だ。日本画としてああいう風に彩描して行く事の一番底に流れている要求は何か? 多少の様式化をしていながら、何故日本絵具ですっかり厚くぬりつぶしたり、モデリングをつけたり、遠近、光陰をつけたりするか。卑近にいえば、洋画に引かれているから。何故洋画に引かれているのかといえば、写実という事が一般画家にとって、大なる大なる誘惑であるから。物を如実に表わしてみたいから。
 かくて彼らは何と弁解しても写実の路を歩こうとしている事は否めない。唯それが本当の写実にならないのは独り日本画のみならず、日本はおろか世界中の数千万の凡庸画家の画は殆ど皆悉く、ふみちがえた写実に堕しているものなのだから仕方がない。
 それなら将来の日本画はどういう道に生れるか。いわゆる旧派の日本画はもう形式になり終って、その型になり切った美術的要素には新らしい日本の心を盛る力がない。それなら何が残るか、ただ残るのは紙と、筆と墨と画具である。それと、日本画(あるいは東洋画)のそれらの質料の持つ型にならない美術品的要素である。(例えば毛筆のカスレ、ニジミ、紙と墨との特殊の味、線のカレやふくらみ、東洋風の色調の持つ味その他無…

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