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![]() つれないとき |
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作品ID | 46569 |
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副題 | 君は何を考へるか きみはなにをかんがえるか |
著者 | 佐藤 惣之助 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「集成 日本の釣り文学 第二巻 夢に釣る」 作品社 1995(平成7)年8月10日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 岩澤秀紀 |
公開 / 更新 | 2012-08-12 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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フイロソフイストは、「人は考へる為めに生れて来た」といふが、われわれフアンテエジストは、「人は空想する為めに生れて来た」と云つてもよい程、用もない時は空想ばかり駛らせてゐる。殊に一個の文章を書かうとする前、一つの考案を纏める前、さういふ時には、この空想の加速度によつて、多くその文章が破棄されることすらある。従つてその空想の奔馬は自在に荒れ狂つて、遂には果てしもない無有郷へ行くか現実をどうどうめぐりして、そのまま没落してしまふ。
釣りに行つて、イザ釣らうとする時、又竿をのべてアタリを待つ時、潮の調子の悪い時、月の明るい時、遥かな港や村をふりかへる時、同じやうに空想の奔馬は天を馳り地を潜る。そしてよく現実がお留守になつて、太公望的期待の心境に陥るか、又はロビンソー・クルーソー式の感情に偏することがある。(釣りに行つては決して現実的の事は断片的にしか考へられない。又考へてゐたら決して釣れないのがふしぎである。)例へば、
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岩魚、ヤマメ、鮎に行つた場合に就いて。鳥、魚、昆虫にも、各自の生層を通じて、自在に会話の出来る瞬間といふものが、有るのではないか。
樹木は「善」の象徴である。曰く彼は何んにもしないから。
海が渓流を引くのか、水が海と山を結ぶのか、水とは白い冷い火ではないのか、或は最もよき食物であり、流れるパンではないか、ターレスは智者だつた。水を愛する者は感情家だといふことだ。
この山には、日本のジプシー、山窩はゐなかつたか、彼等は鮎を何で釣るか。
神農民は、あらゆる草木を舐めて後、何故鮎をムシヤとやらなかつたか。
ギリシヤの神々は釣りをした。日本の神々も釣りをされたに違ひない。釣りをしない民族は不幸だつた。
パミール高原やアマゾンの奥で、一度は釣つて見たいものだ。雲南や青海省の方面の釣信を聴きたいものだ。
もし自分がこのまま帰らなかつたら滑稽だ。心臓がパタリと止まつて。
山姥といふものは猿も同然だ。
蟒、熊、狼、などといふものは、想像するほど人に危害を加へるものではない。うまく行くとよく馴れる。
仙人になるといふことも、ある一歩のところまでは本当に出来る。
生食、裸形生活、雨露の問題、それを練習するには三年かかる。それ以前に誰しもが斃れるからつまらん。
山を下りて行つたら、世の中が一日で変化してゐたり、山峡づたひにペルシヤに出たり、深い無限の竪穴があつたり、桃花郷があつたり、ナポレオンと釈迦と、ガンヂーとヒツトラーなどが向ふから歩いて来たり。
女児を生後一ヶ月から渓流で教育したら、一人を唖にし、一人を聾にし、一人を裸にし、一人を鉄仮面にし……。
一日一人で笑つてゐたら発狂するだらう。
そんな空想をのんきに駛らせて釣り歩るく。然し川釣りになると、町や村も近いし、夜は灯が多いし、あたりに必ず人…