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![]() 「ダブックウ」ひょうりゅうき |
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作品ID | 46636 |
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著者 | 小栗 虫太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「世界SF全集 34 日本のSF(短篇集)古典篇」 早川書房 1976(昭和51)年7月15日 |
初出 | 「新青年」博文館、1940(昭和15)年2月号 |
入力者 | 網迫、土屋隆 |
校正者 | Juki |
公開 / 更新 | 2007-11-07 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 37 ページ(500字/頁で計算) |
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竜宮から来た孤児
前作「天母峯」で活躍した折竹孫七の名を、読者諸君はお忘れではないと思う。
アメリカ自然科学博物館の名鳥獣採集者として、非番でも週金五百ドルはもらう至宝的存在だ。その彼が、稀獣矮麟を追い、麝牛をたずね、昼なおくらき大密林の海綿性湿土をふみ、あるいは酷寒水銀をくさらす極氷の高原をゆくうちに、知らず知らず踏破した秘境魔境のかずかず。その、わが折竹の大奇談の秘庫へ、いよいよこれから分け入ってゆくことになるのだ。
「おい、海を話せよ、君も、藻海ぐらいは往ったことがあるだろう」
とまず私は困らせてやれとばかりに、折竹にこう訊いたのである。
というのは、海に魔境ありということは未だに聴いてないからだ。絶海の孤島、といえばやはり土が要る。たいていは、大陸の中央か大峻険の奥。密林、氷河、毒瘴気の漂う魔の沼沢と――すべてが地上にあって海洋中にはない。ただ、あるといえば藻海くらいだろうが、それも過去における魔境に過ぎず……いまはその怪馬尾藻も汽船の推進器が切ってしまう。
大西洋を、メキシコ湾流がめぐるちょうどまっ唯中、北緯二十度から三十度辺にかけておそろしい藻の海がある。
これは、紀元前カルタゴの航海者ハノンが発見したのが始め。帆船のころは、無風と環流のためそこを出られなくなり、舵器には馬尾藻がぬるぬると絡みついてしまう。そういう、なん世紀前かしれぬボロボロの船、帆柱にもたれる白骨の水夫、それを、死ぬまで見なければならぬ新遭難船の人たち。絶望、発狂、餓死、忍びよる壊血病。むくんだ腐屍の眼球をつつく、海鳥の叫声。じつに、凄惨といおうか生地獄といおうか、聴くだに慄っとするような死の海の光景も、いまは藻海のとおい過去のことになっている。
では、海に魔境は絶対ないと云えるのか[#挿絵] そういうと、折竹は呆れたような顔をして、
「オイオイ、俺だからいいようなもんの、他人には云うなよ。今どき、藻海なんて古物をもち出すと、君の、魔境小説作家たる資格を疑うものがでてくるからね。だが、じっさい海には魔境といえるものが、少ない。彼処に一つ、此処に一つと……マアそれでも、三つくらいあるだろう」
全然ないと思われた海洋中の魔境が、折竹の話によれば三つほどあるという。ゆけぬ魔海――それはいったい何処のことだろう。また、陸の未踏地のごとく全然人をうけつけぬ、その海の魔境たる理由? しかも、それがわが大領海「太平洋」中にあるという、折竹の言葉には一驚を喫しないわけには往かない。
「それが、東経百六十度南緯二度半、ビスマルク諸島の東端から千キロ足らず。わが委任統治領のグリニッチ島からは、東南へ八百キロくらいのところだ。つまり、わが南洋諸島であるミクロネシアと、以前は食人種の島だったメラネシア諸島のあいだだ。そこに、世界にもう其処だけだという、海の絶対不侵域がある」
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