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蛙
かえる |
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作品ID | 46643 |
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著者 | 林 芙美子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「林芙美子全集 第十五巻」 文泉堂出版 1977(昭和52)年4月20日 |
初出 | 「赤い鳥 8月号(終刊号)」1936(昭和11)年8月 |
入力者 | 土屋隆 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2007-01-31 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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暗い晩で風が吹いてゐました。より江はふと机から頭をもちあげて硝子戸へ顔をくつゝけてみました。暗くて、ざは/\木がゆれてゐるきりで、何だか淋しい晩でした。ときどき西の空で白いやうな稲光りがしてゐます。こんなに暗い晩は、きつとお月様が御病気なのだらうと、より江は兄さんのゐる店の間へ行つてみました。兄さんは帳場の机で宿題の絵を描いてゐました。
「まだ、おツかさん戻らないの?」
「あゝまだだよ。」
「自転車に乗つていつたんでせう?」
「あゝ自転車に乗つて行つたよ。提灯つけて行つたよ。」
より江たちのお母さんは村でたつた一人の産婆さんでした。より江はつまらなさうに、店先へ出て、店に並べてある笊や鍋や[#「鍋や」は底本では「銅や」]、馬穴などを、ひいふうみいよおと数へてみました。戸外では、いつか雨が降り出してゐて、湿つた軒灯に霧のやうな水しぶきがしてゐました。兄さんは土間へ降りて硝子戸を閉め、カナキンのカアテンを引きました。より江はさつきから土間の隅にある桶のところを見てゐました。
「健ちやん! 蛙がゐるよ。」
「蛙? どら、どこにゐる?」
「ほら、その桶のそばにつくばつてゐるよ。」
「あゝ、青蛙だね。何で這入つて来たのかねえ――こら! 青蛙、なにしに来た?」
より江は怖いので、兄さんの後にくつゝいてゐました。青蛙はきよとんとした眼玉をして、ひく/\胸をふくらませてゐます。ぼん、ぼん、ぼん、店の時計が八時を打ちました。より江は時計をみあげて、お母さんはどこまで行つたのかしらと怒つてしまひました。より江は淋しいので、兄さんが大事にしてゐるハモウニカを借して貰つて、一人で出鱈目に吹いて遊びました。小学校六年生の健ちやんはとき/″\机から顔をあげて、
「よりちやん、ハモウニカに唾を溜めちや厭だよ」
といひました。より江はハモウニカを灯に透かしてみました。沢山穴があるので、小さいより江は、すぐ汽車の事を考へ出して、ハモウニカを算盤の上へ置いて「汽車ごつこ」とひとりで遊びました。より江が板の間の方までハモウニカの汽車を走らせてゐると、戸外で、
「今晩 今晩 今晩は‥‥」
といふ声がします。
兄さんの健ちやんはびつくりした顔をして「誰かね。」と大きい声で返事をしました。すると、表の硝子戸を開けて、見たこともない一人の男のひとが這入つて来て、
「腹が痛いのだが薬を売つてくれないかね。」といひました。
健ちやんは、煤けた天井から薬袋を降して見知らぬ男のひとのところへ持つてゆきました。男のひとは大変疲れてゐると見えて、土間へ這入つて来ると、すぐ板の間へ腰をかけて「あゝ」と深いためいきをしました。
「誰もゐないのかい?」
とその男は健ちやんに訊きました。健ちやんは泣きそうな顔をして、「うん」と言ひました。雨が強くなつたのでせう、硝子戸がびりびりふるへてゐます。その男のひとは…