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空家
あきや
作品ID46651
著者宮崎 湖処子
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の文学 77 名作集(一)」 中央公論社
1970(昭和45)年7月5日
初出「国民之友」1889(明治24)年8月
入力者川山隆
校正者土屋隆
公開 / 更新2007-04-26 / 2014-09-21
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     上

 麑島謀反の急報は巻き来たる狂瀾のごとく九州の極より極に打てり、物騒なる風説、一たびは熊本城落ちんとするの噂となり、二たびは到るところの不平士族賊軍に呼応して、天下再び乱れんとするの杞憂となり、ついには朝廷御危しとの恐怖となり、世間はみずから想像してみずから驚愕せり、ただ生活に窮せる士族、病人に棄てられたる医者、信用なき商人、市井の無頼らが命の価を得んとて戦場に赴くあるのみ、他は皆南方の風にも震えり、しかれども熊本城ははるかに雲のあなたにて、ここは山川四十里隔たる離落、何方の空もいと穏やかにぞ見えたる、
 いと長き旅に疲れし春の日が、その薄き光線を曳きつつ西方の峰を越えしより早や一時間余も過ぎぬ、遠寺に打ちたる入相の鐘の音も今は絶えて久しくなりぬ、夕の雲は峰より峰をつらね、夜の影もトップリと圃に布きぬ、麓の霞は幾処の村落を鎖しつ、古門村もただチラチラと散る火影によりてその端の人家を顕わすのみ、いかに静かなる鄙の景色よ、いかにのどかなる野辺の夕暮よ、ここに音するものとてはただ一条の水夜とも知らで流るるあるのみ、それすら世界の休息を歌うもののごとく、スヤスヤと眠りを誘いぬ、そのやや上流に架けたる独木橋のあたり、ウド闇き柳の蔭に一軒の小屋あり、主は牧勇蔵と言う小農夫、この正月阿園と呼べる隣村の少女を娶りて愛の夢に世を過ぎつつ、この夕もまた黄昏より戸を締めて炉の火影のうちに夫婦向きあい楽しき夕餉を取りおれり、やがて食事の了るころ、戸の外に人の声あり「兄貴はうちにおらるるや」と、
「オオ」と応うる勇蔵の答えのうちに戸はひらけ、一個の壮年入り来たり炉の傍の敷居に腰かけぬ、彼は洗濯衣を着装り、裳を端折り行縢を着け草鞋をはきたり、彼は今両手に取れる菅笠を膝の上にあげつつ、いと決然たる調子にて、「兄貴、われは今熊本の戦争に往くところにてちょっと暇乞いに立ちよりぬ」と言う、思いもよらぬ暇乞いに夫婦は痛くも驚いたり、
 彼は山田佐太郎と言う壮年、勇蔵には無二の友、二年前両親に逝れ、いと心細く世を送れる独身者なり、彼は性質素直にして謹み深く、余の壮年のごとく夜遊びもせず、いたずらなる情人も作らず、家に伝わる一畝の田を旦暮に耕し耘り、夜は縄を綯い草鞋を編み、その他の夜綯いを楽しみつ、夜綯いなき夜はこの家を訪い、温かなる家内の快楽を己がもののごとく嬉しがり、夜深けぬ間に還りて寝ぬ、されば彼は同年らに臆病者と呼ばれ、少女情人らの噂にも働きなしとの評はあれど、父老らは彼を褒め、彼を模範にその子を意見するほどなりき、しかして彼また決して臆病者にあらず、謹厚の人もまた絳衣大冠すと驚かれたる劉郎の大胆、虎穴に入らずんば虎子を得ずと蹶起したる班将軍が壮志、今やこの正直一図の壮年に顕われ、由々しくも彼を思い立たしめたり、
「和主が戦争にゆくとか」「しかり」「げにか」「げによ」「そは和…

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