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麻酔剤
ますいざい |
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作品ID | 46670 |
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著者 | ルヴェル モーリス Ⓦ |
翻訳者 | 田中 早苗 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「夜鳥」 創元推理文庫、東京創元社 2003(平成15)年2月14日 |
初出 | 「新青年」1923(大正12)年8月増刊号 |
入力者 | 土屋隆 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2008-02-07 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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「わたしなんか、麻酔剤をかけなければならぬような手術をうけるとしたら、知らないドクトルの手にはかかりたくありませんね」
と美くしいマダム・シャリニがいいだした。
「そんなときは、やっぱり恋人の手で麻酔らせて貰わなければね」
老ドクトルは、自分の職業のことが話題にのぼったので、遠慮して黙りこんでいたが、そのとき初めて首をふって、
「それは大変な考え違いですよ、マダム。そんなときは、滅多に恋人なんかの手にかかるもんじゃありません」
「何故ですの? 恋しい人が傍についていてくれたら、どんなに心強いかしれませんわ。そうした生命にもかかろうというときは、思念をすっかりその人の上に集めますと、精神の脱漏を防ぐことが出来ますからね。恋人の眼でじっと見つめられながら麻酔に陥ちてゆくなんて、どんなにいい気持でしょう。それから、意識にかえるときの嬉しい心持を思っても御覧なさい。『覚醒』の嬉しさをね……」
「ところが麻酔の醒め際なんか、そんな詩的なものじゃありません」ドクトルは笑いながら、「麻酔からの醒め際は厭な気持のするもので、そのときの患者の顔といったら、見られたもんじゃありません。どんな美人だって恋人から愛想をつかされるにきまっています」
といったが、暫く押黙ったあとでつけ加えた。
「そればかりでなく、迂闊に恋人なんかの手にかかると、頗る危険なのは、覚醒しないでそれっきりになることがあります」
これには皆が反対説を唱えだしたので、ドクトルも後へ退けなくなってしまった。
「そんなら、私の説を証拠立てるために、皆さんにごく旧いお話を一つお聴きに入れよう。実は、私がその悲劇の主人公なんですがね、今はお話したって誰に迷惑のかかる気づかいもありません。というのは、関係者がみな死んでしもうて、生き残っているのは私独りなのです。但し関係者の姓名は秘しておきますから、皆さんが墓場をお探しになっても無駄ですよ。
私は今は七十の声がかかって、御覧のとおりの老ぼれなんだが、その時分は二十四になったばかりで、若い盛りでした。
私は病院の助手をやっていたが、恰度その頃、或る婦人と恋に陥ちました。私としてはこれが後にも前にもたった一度の、そして熱烈な恋でした。
彼女と逢引をするためなら、どんな愚劣な真似でもやりかねなかったのです。そして彼女の平和のためや、世間の誹謗を防ぐためなら、どんな大きな犠牲をも払っただろうし、また、万一われわれの恋が暴露かけて、彼女に疑いがかかるような場合には、私は直ちに自殺をしようという意気込でした。われわれは何方も若かったのです。女は、その時分、二十も年上の男と無理強いに結婚をさせられていました。それに、老人の口からこう申しちゃお恥かしい次第だが、われわれはお互いに真から惚れ合った同士でした。
数ヶ月間はこの上もなく幸福でした。慎ましくしていたので、誰一人感…