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おせん
おせん
作品ID46687
著者邦枝 完二
文字遣い新字新仮名
底本 「大衆文学代表作全集 19 邦枝完二集」 河出書房
1955(昭和30)年9月
入力者伊藤時也
校正者松永正敏
公開 / 更新2007-05-18 / 2014-09-21
長さの目安約 152 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

  虫


    一

「おッとッとッと。そう乗出しちゃいけない。垣根がやわだ。落着いたり、落着いたり」
「ふふふ。あわててるな若旦那、あっしよりお前さんでげしょう」
「叱ッ、静かに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領だかわかりゃァしねえ」
 が、それでも互の声は、ひそやかに触れ合う草の草ずれよりも低かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向う臑を蚊が食いやす」
「御辛抱、御辛抱。――」
 谷中の感応寺を北へ離れて二丁あまり、茅葺の軒に苔持つささやかな住居ながら垣根に絡んだ夕顔も白く、四五坪ばかりの庭一杯に伸びるがままの秋草が乱れて、尾花に隠れた女郎花の、うつつともなく夢見る風情は、近頃評判の浮世絵師鈴木晴信が錦絵をそのままの美しさ。次第に冴える三日月の光りに、あたりは漸く朽葉色の闇を誘って、草に鳴く虫の音のみが繁かった。
「松つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違いはあるまいの」
「冗談じゃござんせんぜ、若旦那。こいつを間違えたんじゃ、松五郎めくら犬にも劣りやさァ」
「だってお前、肝腎の弁天様は、かたちどころか、影も見せやしないじゃないか」
「御辛抱、御辛抱、急いちゃァ事を仕損じやす」
「ここへ来てから、もう半時近くも経ってるんだよ。それだのにお前。――」
「でげすから、あっしは浅草を出る時に、そう申したじゃござんせんか。松の位の太夫でも、花魁ならば売り物買い物。耳のほくろはいうに及ばず、足の裏の筋数まで、読みたい時に読めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時はおろか、事によったら一時でも二時でも、垣根のうしろにしゃがんだまま、お待ちンならなきゃいけませんと、念をお押し申した時に、若旦那、あなたは何んと仰しゃいました。当時、江戸の三人女の随一と名を取った、おせんの肌が見られるなら、蚊に食われようが、虫に刺されようが、少しも厭うことじゃァない、好きな煙草も慎むし、声も滅多に出すまいから、何んでもかんでもこれから直ぐに連れて行け。その換りお礼は二分まではずもうし、羽織もお前に進呈すると、これこの通りお羽織まで下すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時経つか経たないうちから、そんな我儘をおいいなさるんじゃ、お約束が違いやす。頂戴物は、みんなお返しいたしやすから、どうか松五郎に、お暇をおくんなさいやして。……」
「おっとお待ち。あたしゃ何も、辛抱しないたいやァしないよ。ええ、辛抱しますとも、夜中ンなろうが、夜が明けようが、ここは滅多に動くンじゃないけれど、お前がもしか門違いで、おせんの家でもない人の……」
「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂でも、若旦那を知らねえ家の垣根まで、引っ張って来る筈ァありませんや。松五郎自慢の案内役、こいつばかりゃ、たとえ江戸がどんなに広くッても――」
「叱ッ」…

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