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食べもの
たべもの
作品ID46749
著者佐藤 垢石
文字遣い新字新仮名
底本 「『たぬき汁』以後」 つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日
入力者門田裕志
校正者松永正敏
公開 / 更新2007-01-23 / 2014-09-21
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は、この三月七日に、故郷の村へ移り住んだ。田舎へ移り住んだからといって、余分に米が買えるわけではなし、やたらに野菜が到来するわけではない。
 近い親戚の人々や、家内の者と相談し、麦は今年の秋から、稲は来年の夏から、蒔いたり植えたりすることにして、まず手はじめに屋敷の一隅と屋敷に続く畑へ野菜を作ることにした。つまり、帰農のまねごとというのであろう。
 しかしながら、野菜といっても愚かにならぬ。人間は、野菜なくして一日も生きていけないのだ。魚獣の肉はさることながら、この一両年、青物が甚だ好物になった。殊に家族の者共は菜っ葉大根を愛好し、香の物といえば、舌鼓打って目もないほどだ。
 私の家も、先祖代々百姓である。私の代になってから、故郷を離れ文筆などというよからぬ業に親しんで、諸国巡歴に迷い出たが、中学時代までは鍬も握り、鎌も砥いだものである。だから、全く耕土を持たぬわけではなかった。
 上手ではないけれど、うねも切り、種ものも指の間から、ひねりだせる。
 第一着に、屋敷の一隅へ鍬を入れたのが、三月中旬である。それから五月中旬までに、蒔いたり植えたりしたものに、時なし大根、美濃わせ大根、甘藍、里芋、夏葱、春蒔白菜、春菊、胡瓜、唐茄子、西瓜、亀戸大根、山東菜、十二種類、なんと賑やかではないか。僅か十八坪か二十坪の庭が、野菜の百貨店となった。
 屋敷続きの畑には第一に馬鈴薯を植えた。それから茄子、トマト、蔓なし隠元、岩槻根深、小松菜、唐黍など。
 そしてこの、園芸の師匠は本家の邦雄さんと呼ぶ農学校出の青年である。恐らく、この夏から秋にかけては、素晴らしい果菜が、山のように食膳を賑やかすことと思う。
 楽しいものだ。おかげさまで、朝は四時に離床して、畑の土に覗き入り、蒔いた種のご機嫌を伺う。初夏は、朝が早い。私が、飽かず胡瓜の貝割葉に興を催していると、四時半には野州の山の端から、錦糸にまがう陽の光が散乱する。光景を受けた喜びに、物の葉が微風に震う。
 夜七時が、夕めし。食べ終わると枯木が倒るるが如く、畳の上で大いびき。
 合計百二、三十坪の野菜畑に過ぎないが、下肥汲みまでやるのであるから、なれぬからだには相当の労働だ。快く疲労すること、まことに健康そのものだ。
 さて、種を蒔き、苗を植えたからといって二十日や一ヵ月で、収穫があるというものではない。しからば、畑から物がとれるまでの間、一体なにを食っているのかという問題になる。日常、配給を受けるものは米、味噌、醤油だけ。そのほか、副食物とか魚類、野菜に類した品はこの農村には全く配給がないと称してよろしいのである。
 三月上旬に転住してきて以来、ただ僅かに一回、一人当たり生鰊が半身とお茶の葉が少量だけ。ほかの品は、まるでお顔を拝さぬ。
 だが、いまは戦局重大な折柄である。そんな次第でも、われら家族になんの不平も、愚痴もな…

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