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作品ID | 46781 |
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著者 | 佐藤 垢石 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「垢石釣り随筆」 つり人ノベルズ、つり人社 1992(平成4)年9月10日 |
初出 | 「釣趣戯書」三省堂、1942(昭和17)年 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2007-07-06 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
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奥山へは、秋の訪れが早い。
都会では、セルの単衣の肌ざわりに、爽涼を楽しむというのに、山の村では、稗を刈り粟の庭仕事も次第に忙しくなってくる。栗拾いの子供らが、分け行く山路の草には、もう水霜が降りて竜胆の葉がうなだれる。
渓流の波頭に騒ぐ北風も、一日ごとに荒らだってくる。そして波間に漂う落葉の色を見ると、奥の嶺々を飾っていた紅葉は、そろそろ散り始めて山肌をあらわに薄寒く、隣の谷まで忍び寄ってきた冬に慄いているさまが想えるのである。
そのころ、澄んだ渓水の中層を落葉に絡まりながら下流へ下流へと落ちていく魚がある。これを木の葉山女魚という。
木の葉山女魚の姿を見ると、しみじみと秋のさびしさが身に沁みる。人間の、孤独さを想わないではいられない。
春さき、川の水が温まってくると、中流に遊んでいた山女魚は上流へ上流へと遡り、夏には冷徹な渓水に棲みついてしまう。九月末から十月になれば、親の山女魚は、浅い流れの小石の間に堀をほって卵を産みつけるのである。性の使命を終えた親の山女魚は、まことに気の毒な姿になる。体色は真っ黒に変わり、痩せ衰えて岩の陰にかがんでしまう。味が劣って釣っても食べ物にならないのである。
ところが、二年子のまだ腹に子を持たない山女魚は、秋になっても体色も変わらず肉も落ちず、青色の鱗の底に紫色の光沢を浮かべて活発に泳ぎ回っている。体側に並んだ小判型の斑点は、その麗谷に一層の美を添えているかのように見えるのである。大きな口の上にチョコンとついた丸い眼。いかめしくもあるが、おどけた風でもある。この二年子が落葉を浮かべて流れる渓流を里の村近くへ下ってくる。秋の山女魚釣りは、親を狙うよりも、子を狙うのを本筋としてきた。
木の葉山女魚を釣るのは、盛夏のころ親山女魚を釣るよりも楽である。竿は二間か二間半の軽いもの。胴のしっかりした穂先のやわらかい竿がよろしい。仕掛けの全長は竿の長さだけで錘から上四、五尺を一厘二毛柄のテグスにして、鈎素は八毛か一厘柄のテグス五寸くらい。鈎は袖型の六分か七分でよかろう。錘は板鉛を使って、一匁の十分の一か二もあればいい。それから錘の上一尺五寸ばかりのところへ、水鳥の白羽を移動式につける。これは、目標といって、魚が餌に当たった時の目印にするのである。
秋の山女魚は深い淵の渦巻くところに、上流からくる餌を待って群れている。そこへ道糸を振り込んでそろそろと流してやると、白羽の目印がツイと横に揺れる。餌をくわえているのである。すかさず鈎合わせをすると、可憐な姿で、胴に波を打たせながらひらひらと鈎先にかかってくる。
塩焼きもいい。ことに鱒科の魚は油になじみがよく、天ぷら、ふらいにすると、やわらかな甘味が舌端に溶ける。家庭の人々に、魚籠の底にならぶ紫色の魚を見せたら、どんなに喜ぶことであろう。