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増上寺物語
ぞうじょうじものがたり
作品ID46789
著者佐藤 垢石
文字遣い新字新仮名
底本 「完本 たぬき汁」 つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年2月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2007-04-24 / 2014-09-21
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     五千両の[#「五千両の」は底本では「五十両の」]無心

 慶応二年師走のある寒い昧暗、芝増上寺の庫裏を二人の若い武士が襲った。二人とも、麻の草鞋に野袴、革の襷を十字にかけた肉瘤盛り上がった前膊が露である。笠もない、覆面もしない。
 経机の上へ悠然と腰をおろして、前の畳へ二本の抜き身を突きさした、それに対して、老いた役者が白い綿入れに巻き帯して平伏している。役者というのは、いまでいう寺の執事長である。一人は土方晋、一人は万理小路某と臆するところもなく役者に名を告げた。そして土方が厳かな言葉で、
『増上寺にも、いまの時世が分かっていよう。国のためだ――迷惑であろうが、直ぐこの場で五千両だけ用達て頼む』
 と、迫った。役者は、
『はっ』
 こう答えたが、しばし畳から面が離れなかった。役者は、ほんとうに当惑したのである。日ごろ増上寺の懐中を預かっているこの役者が、ここでおののく胸に胸算用をしてみると、あちこち掻き集めたところで手許には金二千両しかない。武士の要求に、三千両足りないのだ。五千両位たやすく並べることと見当をつけてきたのであろうから、二千両しか手許にない、と正直に答えれば、この畳にさしてある白刃がどう物をいうか、分かったものではない。けれど、無いものは無いのだ。何と致し方もない。役者は肚をきめた。
『お言葉たしかに承引致しました。しかし、増上寺は永年手許不如意にて、既刻の話にては、ご無心に三千両足りません。とは言いましても、半刻ほどお待ちくだされば心当たりの筋から用達て参り、ご満足をはかりたい』
 土方と、万理小路は眼を見合わせた。土方が万理小路の耳に囁くと、万理小路は役者の背中の上から太い声で、
『分かった。うろたえて騒ぎまわれば寺のためにならぬ。半刻の猶予は余儀なく思う。待つ、早く用達て参れ』
 と、圧するように言った。
 役者が庫裡の大戸を開けて出ようとすると、そこに見張っていた六、七人の武士が忽として取りまいた。役者は取り巻かれたまま、七代将軍の霊廟有章院別当瑞蓮寺へ行って、まだ明け方の夢がさめない庫裡を叩いた。
 即座に三千両は都合になった。増上寺の庫裡へ戻って土方と万理小路の脚下へ、都合五千両が並べられた。土方が合図をすると、大戸の方からも、厨房の方からも十四、五人の武士が駆け込んできて、五千両の金を何処ともなく運び去ったのである。
 土方晋は、後の土方伯であった。
 翌年の七月、こんどは白昼、土方らは増上寺へ押し込んできた。
『宇都宮戦営の軍費にして、尊王方の勘定方に少々都合がある。たびたびで気の毒に思うが、この度は金三千両だけ用達てくれ』
 役者は前の時の僧であった。ところが、その時の増上寺には一文の蓄えもなかったのである。役者は、また白刃の前に怯えた。震える声で役者はおそるおそる寺の財政の現状について述懐し、何としても即刻融通を…

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