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姫柚子の讃
ひめゆずのさん |
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作品ID | 46808 |
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著者 | 佐藤 垢石 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「完本 たぬき汁」 つり人ノベルズ、つり人社 1993(平成5)年2月10日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2007-04-16 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
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このほど、最上川の支流小国川の岸辺から湧く瀬見温泉へ旅したとき、宿で鰍の丸煮を肴に出してくれた。まだ彼岸に入ったばかりであるというのに、もう北羽州の峡間に臨むこの温泉の村は秋たけて、崖にはう真葛の葉にも露おかせ、障子の穴を通う冷風が肌にわびしい。私は流れに沿った一室に綿の入った褞袍にくるまり、小杯を相手として静かに鰍の漿を耽味したのであった。
折りから訪ねてきた一釣友に、この小国川は鮎ばかりでなく鰍にも名のある渓であるときいた。小国川は昔、判官義経主従が都を追われ、越路をめぐって羽前の国の土を踏み、柿色の篠懸に初夏の風をなびかせて、最上川の緑を縫った棧道をさかのぼり、陸奥の藤原領へ越える峠の一夜、足をとどめた生月の村の方からくる源遠き峡水であるから、ここに棲む鰍の味が肥えているのは当然のことであろうと思ったのである。そこで私は、この丸煮よりも鰍膾[#ルビの「なます」は底本では「まなす」]の淡白を所望したのであるけれど、生憎このごろは漁師が川業を休んでいるために、活き鰍が市場へ現われてこぬとのことであった。残念ながら、いたしかたない。それにつけて思いだしたのは、わが故郷奥利根川の鰍である。私は幼いころから、利根川の鰍に親しみ深かった。
晩秋の美味のうち、鰍の膾に勝るものは少ないと思う。肌の色はだぼ沙魚に似て黝黒のものもあれば、薄茶色の肌に瑤珞の艶をだしたのもある。しかし、藍色の鱗に不規則に雲形の斑点を浮かせ、翡翠の羽に見るあの清麗な光沢をだしたものが、至味とされている。
殊に、鰍の味と川の水温とに深い関係があった。上越国境の山々が初冬の薄雪を装い、北風に落葉が渦巻いて流れの白泡を彩り、鶺鴒の足跡が玉石の面に凍てるようになれば、谷川の水は指先を切るほどに冷たくなる。鰍の群れはこの冷たい水を喜んで、底石に絡わりながら上流へ遡ってゆく。そのころ瀬を漁る鰍押しの網に入ったものが、一番上等といえるのである。
また早春、奥山の雪が解けて、里川の河原を薄にごりの雪代水で洗うとき、遡り[#挿絵]で漁った鰍も決して悪くはない。山女魚も鱒の子も、鮎も同じように冷たい水に棲んでいるものほど、骨と頭がやわらかであるが、殊に鰍は晩秋がくると、こまやかな脂肪が皮肉の間に乗って、川魚特有の薄淡の風味のうちに、舌端に熔ける甘膩を添えるのだ。
奥上州の、空に聳える雪の武尊山の谷間から流れでる発知川と、川場川を合わせる薄根川。谷川岳の南襞に源を発し猿ヶ京を過ぎ茂左衛門地蔵の月夜野で利根の本流に注ぐ赤谷川で漁れる鰍は、わが故郷での逸品である。東京近県では上州のほかに常陸の国の久慈川上流に産するもの、また甲州白根三山の東の渓谷を流れる早川で漁れる鰍も、まことにみごとである。いずれの川も水温が低いためであると思う。
鰍は、二月から四、五月にかけて、水底の大きな石の裏側に卵を産みつける。姿…