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瘠我慢の説
やせがまんのせつ
作品ID46829
副題05 福沢先生を憶う
05 ふくざわせんせいをおもう
著者木村 芥舟
文字遣い新字新仮名
底本 「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」 講談社学術文庫、講談社
1985(昭和60)年3月10日
入力者kazuishi
校正者田中哲郎
公開 / 更新2006-12-14 / 2014-09-18
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 左の一篇は木村芥舟翁の稿に係り、時事新報に掲載したるものなり。その文中、瘠我慢の説に関係するものあるを以て、ここに附記す。

     福沢先生を憶う

木村芥舟
 明治三十四年一月廿五日、予、先生を三田の邸に訪いしは、午後一時頃なり。例の通り奥の一間にて先生及び夫人と鼎坐し、寒暄の挨拶了りて先生先ず口を開き、この間、十六歳の時咸臨丸にて御供したる人来りて夕方まで咄しましたと、夫人に向われ、その名は何とか言いしと。予、夫れは留蔵ならんといえば、先生、それそれその森田留蔵……それより談、新旧の事に及ぶうち、予今朝の時事新報に出たる瘠我慢の説に対する評論についてと題する一篇に、旧幕政府の内情を詳記したるは、いずれ先生の御話に拠りたるものなるべし、先生には能くもかかる機密を御承知にて今日までも記憶せられたりといえば、先生、いや私が書生仲間には随分かようなる事に常々注意し、当時の秘密を探り出し、互に語り合いたることあり、なお洩れたる事柄も多かるべし、ただ遺憾なるは彼の脇屋某が屠腹を命ぜられたる事を聞き、かかる暴政の下に在ては何時いかなる嫌疑をうけて首を斬られんも知れずと思い、その時筐中に秘し置たる書類は大抵焼捨ました、今日と成りては惜しき事をしましたと談次、先生遽かに坐を起て椽の方に出らる。その挙止活溌にして少しも病後疲労の体見えざれば、予、心の内に先生の健康全く旧に復したりと竊かに喜びたり。
 夫人云わるるよう、この頃用便が至て近くなりまして、いつもあの通りで困りますと。やがて先生座に復され、予、近日の飲食御起居如何と問えば、先生、左右の手を両の袖のうちに入れ、御覧の通り衣はこの通り何んでも構いませぬ、食物は魚并に肉類は一切用いず、蕎麦もこの頃は止めました、粥と野菜少し許り、牛乳二合ほどつとめて呑みます、すべて営養上の嗜好はありませんと。この日、先生頗る心能げに喜色眉宇に溢れ、言語も至て明晰にして爽快なりき。
 談、刻を移して、予、暇を告げて去らんとすれば、先生猶しばしと引留られしが、やがて玄関まで送り出られたるぞ、豈知らんや、これ一生の永訣ならんとは。予が辞去の後、先生例の散歩を試みられ、黄昏帰邸、初夜寝に就れんとする際発病、終に起たれず。哀哉。
 嗚呼、先生は我国の聖人なり。その碩徳偉業、宇宙に炳琅として内外幾多の新聞皆口を極めて讃称し、天下の人の熟知するところ、予が喋々を要せず。予は唯一箇人として四十余年、先生との交際及び先生より受けたる親愛恩情の一斑を記し、いささか老後の思を慰め、またこれを子孫に示さんとするのみ。
 予の初めて先生を知りしは安政六年、月日は忘れたり。先生が大阪より江戸に出で、鉄炮洲の中津藩邸に住われし始めの事にして、先生は廿五歳、予は廿九歳の時なり。先生咸臨丸米行の挙ありと聞て、予が親戚医官桂川氏を介してその随行たらんことを求められしに…

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