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明治三十一年三月十二日三田演説会に於ける演説
めいじさんじゅういちねんさんがつじゅうににちみたえんぜつかいにおけるえんぜつ
作品ID46848
著者福沢 諭吉
文字遣い旧字旧仮名
底本 「福澤諭吉全集 第19卷」 岩波書店
1962(昭和37)年11月5日
初出「慶應義塾學報 第二號」1898(明治31)年4月
入力者田中哲郎
校正者小林繁雄
公開 / 更新2011-05-07 / 2014-09-16
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 自尊自大と云ふことは固より惡いことはない。こりや人情の自然で、即ち愛國心の命ずる所であるから、或は小供などには殊更らに之を勸めるも宜しい、又勸めなければならぬであらう。譬へば英吉利で學校の小供に地理を教へる、所で英吉利の彼の島を露西亞や亞米利加の領分に比すれば如何にも小さくて何だか風が惡いと云ふところからして、別段に地圖を拵えて殊更らに自分の國を大きく書いて小供に教へて居ると云ふことがありました。その位のもので、隨分自尊自大と云ふことは甚だ宜しい事であるから遣るが宜しい。
 甚だ宜しいけれども、扨て此人情は世界普通で、何處の國民でも自尊自大と云ふことを思はないものはない。何處の國へ行つたところが、乃公の國は尊い、乃公の國は大きなものだと思つて居るに違ひない。その通りに思つてるとすれば、自分獨りで自國ばかりが尊い、自國ばかりが大きなものとして威張つて居ることは、何としても是れは事實に於て行はれない事である。此に於てか平等の大義、即ち彼我相對すれば全く同等であると云ふ大義が生じて來る。その平等の大義と云ふものは國交際の根本である。例えば商賣と同じ事で、どの商賣人だつて何でも自分の利益になるやうになるやうにと心掛けるが商賣人の常であるけれども、自分獨りそう思ふのではない、隣りの人も亦其通り思ふて居る。何でも自分が一番大利益を占めやうと思はない者はない。之れを國にして云へば、茲に甲の國乙の國と云ふものがある、兩國相對する時には、此方の國民は自國の利益ばかりを大切に思つて、如何がなして自分の國の利益になるやうにとばかり考へて居るけれども、是れが此方ばかりそう思つて居れば宜しいが、隣國の人も其通りに思ひ、隣りの親爺も亦その通りに思つて居る。ソコで仕方がないから、商賣をし貿易をしながら、彼方にも便利になるように、此方にも共に便利になるようにと思ふところからして、自から自利利他と云ふことが起つて來る。サアそれと同じ事で、國に於ても、自尊も宜しい、自大も宜しい、自尊自大甚だ宜しいけれども、如何してもそりや出來られない話で、自尊尊他と斯う云はなくてはならぬと云ふことになつて、自分の國が尊いものだと云へば隣りの國も尊いものと斯う爲なければならぬではないか。分り切つた話。
 然るに今日の日本の世間に流行する所の趣意は、自大自尊と同時に他を卑めるやうに見える風のあるのは如何だ。是れは行はれない話ではないか。隣りの國が卑しいから自分が尊いものだと斯う云へば、之を商賣にして見れば、隣りの者は馬鹿だから自分の家のみを繁昌させやうと斯う云ふ理屈になる。隣りの親爺が果して馬鹿で利を知らないものならばソリヤ甚はだ都合が宜からうけれども、隣りの親爺も馬鹿でない、ちやんと利益を知て居る。利益を知て居るのに、自分の家ばかり利しやうと云ふことは出來られないではないか。そうすれば自尊も宜しい、自大も宜し…

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