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顔
かお |
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作品ID | 46867 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集5」 岩波書店 1991(平成3)年1月9日 |
初出 | 「中央公論 第四十七年第五号」1932(昭和7)年5月1日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2008-04-16 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 34 ページ(500字/頁で計算) |
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男
女
菅沼るい
京野精一
土屋園子
ある海浜の寂れたホテル
四月のはじめ。晴れた静かな夕刻。
[#改ページ]
舞台は、ホールを兼ねただゞつ広い日光室の一隅。――正面、硝子戸を距てて、やゝ遠く別棟の食堂が見え、左手は、庭の芝生へ降りる扉。右手、いつぱいに奥へあがる階段――二階は客室である。その階段の降り口から、右へ、玄関へ続く薄暗い別のホール。
窓ぎはに、整然と、椅子テーブルが並び、テーブルには、鉢植の草花。室の中央に、ピンポン台。
階段の横に、大型の電気蓄音機。
一組の男女が、階段を降りて来る。
男は四十五六、女は二十八九、夫婦のやうにも見え、夫婦でないやうにも見える。男は頑丈な体格の、苦学生上りの役人とでも云ひたい風貌を備へ、女は、素人風をした商売女と云へば云へよう。二人は、一つのテーブルを夾んで腰をおろす。
室内は、外が暗くなるのにつれて暗くなる。やがて、食堂に燈火がつく。
[#改ページ]
女 あなた、このホテルへははじめてぢやないのね。
男 どうして……。
女 でも、あんまり勝手をよく知つてらつしやるから……。それに……。
男 海がどつちに見えるかぐらゐ、すぐわかるさ。
女 さうぢやないんですよ。あの、女中頭つていふのかしら、部屋を案内したお婆さんね。なんだか、馴れ馴れしい口の利き方をしてたぢやありませんか。
男 あゝ、あゝいふ奴はよくゐるよ。いや、宿屋には限らない。客商売つていふもんは、そこが骨さ。初めて買物をした店で、毎度ありがたうつて云ふぢやないか。
女 …………。
男 二人とも知らないところへ行きたいといふから、わざわざこんなところへ出かけて来たんだ。それほど名案でもなかつた。時節外れの海岸は、まあ、こんなもんさ。
女 ほんとに、あなたつて、どうしてさう、方々をお歩きになつたの? あたしが行きたいと思ふところを、みんな知つてるつておつしやるから、いやになるわ。
男 お前は、また、どうして、さう、何処も彼処も知らないんだ?
廊下で鈴を鳴らす音。食堂が開いた報らせである。
女 ちよつと、顔をなほして来ますわ。
男 部屋は十七号だよ。さ、鍵を持つてかなけれや……。
女、階段を上つて行く。その間に、女中頭の菅沼るい(五十歳)白い毛糸のジャケツを、肥つたからだに軽く羽織つて勿体らしく右手のホールから現はれる。男に会釈して、蓄音機の蓋を開け、レコードを択り、賑やかなタンゴをかける。そして、傍らの椅子に腰をおろし、眼をつぶつて聴き入る。
帳場の方から、「サン・ルームの電気!」といふマネーヂャアらしい声。
菅沼るいは、ハッとして、起ち上り、急いでスヰッチをひねる。こつちを見てゐる男と、視線が会ふ。
るい 海がいゝ塩梅に静かでございます。
男 ホテルも静かだね。
るい はい、でも、一昨日までは、お部屋が足りな…