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永遠の夫
えいえんのおっと
作品ID46886
著者ドストエフスキー フィヨードル・ミハイロヴィチ
翻訳者神西 清
文字遣い旧字新仮名
底本 「永遠の夫」 岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年9月5日
入力者高柳典子
校正者Juki
公開 / 更新2017-10-30 / 2017-10-22
長さの目安約 387 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 ヴェリチャーニノフ

 夏が來たというのに、ヴェリチャーニノフは案に相違して、ペテルブルグに踏みとどまることになった。南ロシヤの旅行もおじゃんになったばかりか、事件はいつ片づくとも見えない始末だった。事件というのは領地に關する訴訟だったが、風向きはすこぶる思わしくなかった。つい三月ほど前までは、とても單純で、ほとんど議論の餘地もないものに見えていたのだったが、どうかした拍子にがらりと雲行きが變ってしまったのである。
『おまけにどうも、何もかも惡いほうへ變りだしやがって!』
 とそんな文句を、ヴェリチャーニノフはさも忌々しそうに、よく獨り言にくり返すようになった。彼は腕利きの、報酬の高い、有名な辯護士をやとって、費用の點は少しも惜しまなかった。それでも、やはりもどかしく、信用の置けない氣持がして、自分までが事件に首をつっこむようになった。つまり書類を讀む、自分でも書く、そして大抵は辯護士の手で屑籠へ捨てられる。また裁判所から裁判所へ駈けずり[#挿絵]ってみたり、調査をしてみたりするのだったが、おそらくこれが、よほど事件の運びの邪魔になったのである。少なくも辯護士は苦情を鳴らして、彼を別莊へ敬遠しようとした。ところが彼のほうでは、別莊へ行くだけの決心さえつき兼ねたのである。ほこりっぽさ、蒸暑さ、神經をいらだたせるあのペテルブルグの白夜、――そうしたものを、彼はペテルブルグで滿喫していたわけなのだ。彼のアパートは大劇場の近所にあって、ついこのあいだ借りたばかりだったが、これも同じく失敗だった。まったく彼の言い草じゃないが、『何もかも巧く行かん!』なのである。彼のヒポコンデリーは、日ましにひどくなるばかりだった。とはいえこのヒポコンデリーの兆候は、だいぶ前からあるにはあったのである。
 彼は世間をひろく渡って、いろいろなことを見てきた男である。もはや決して若いとはいえぬ、三十八か、ひょっとしたら九にもなろうという年配だが、そもそもこの『老年』という奴は、彼自身の言い草によると、『まるで拔き打ちに』彼を襲ったのだった。しかも彼自身の解するところにしたがえば、彼が老いこんだのは年齡の量によるというよりは、むしろ言ってみればその質によるものなので、もしすでに老衰がはじまっているものとすれば、それは外部からよりも却って内部からなのであった。うち見たところ、彼は今なお血氣壯んであった。背の高い、堂々たる恰幅の男で、髮の毛は淡色で房々していて、頭の毛にも、またほとんど胸の半ばにとどきそうな亞麻色の長い髯にも、白毛なんぞはただの一筋だってなかった。ちょいと見ると、どこか少し間のびのした、だらしない男に見える。だが、もっと眼をこらして眺めると、諸君はたちどころに、昔は最高の上流社會の子弟として教育を受けたことのある、育ちのいい一人の紳士を、彼のうちに見いだされるだろう。わざと氣…

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