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私の社交ダンス
わたしのしゃこうダンス |
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作品ID | 46888 |
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著者 | 久米 正雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻96 大正」 作品社 1999(平成11)年2月25日 |
入力者 | 浦山敦子 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2007-09-13 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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確かジムバリストの演奏会が在つた日の事だつたと思ふ。午後四時頃、それが済んで、帝劇を出た時は、まだ白くぼやけたやうな日が、快い柔かな光で、お濠の松の上に懸つてゐた。
音楽の技巧的鑑賞には盲目だが、何となしに酔はされた感激から、急にまだ日の暮れぬ街路へ放たれた心持は、鳥渡持つて行きどころがない感じだつた。「さて、どうしようか。」と、僕たち二三人は行きどころに迷つてゐた。そして、此の興奮を抱いて、ムザ/\つまらない所へ行くのは、何だか惜しい気がするが、結局銀座でもぶら/\歩いて、時を消す外ないと思つてゐた。
と、後から、追ひ越して来た松山君が、
「どうです。そんなら僕らのダンス場へ行つてみませんか」と誘つて呉れた。
ジムバリストからダンスへ。何だか少しジムバリストの後味に対して済まないやうにも感じたが、生まれてまだ一度もダンス場なるものを見た事がないので、かう云ふ機会を外しては、又わざ/\其の為めに出かけでもしない限り、ダンス場なるものに近づけないと思つて、直ぐ従いて行く事にした。音楽会からダンス場へ。――それは又所謂かの「文化生活」とやらに誂へ向きな話だ。
「文化生活」と云ふものも、味つて置いて損はない。そんな一種皮肉な気持もあつて、例の微苦笑を湛へながら、兎も角も其の当時在つた江木の楼上へ行つて見た。
其処には其の頃研究座に出る女優さんが、二人来て居た。二人とも髪を短く切つて、洋服を着てゐたが、それが反感を持てぬ位ゐ、よく似合つてゐた。私は急に何だか異つた世界へ、誘ひ込まれた小胆さで、隅の方で小さくなつて見物してゐた。
やがて蓄音器をかけて、松山君と其の人たちが踊り始めた。其の踊りの第一印象は、「何だ、こんなものなら、俺にだつて直ぐ出来さうだ。」と云ふやうな心持だつた。音楽に合して、歩いてゐれやあそれでいゝんぢやないか。と、そんな風に造作もなく思つた。それが病みつきの本で、又間違ひの本だつた。――全く社交ダンス程、入り易くて、達し難きものはない。が入りいゝ事だけは確かだ。そして別にさううまくならなくても、自ら楽しみ得さへすれば、社交ダンスの目的は終るのだから、それだけでもいゝのだ。
兎に角、私はかうして見て居る間に、直ぐ踊りたくなつたのは事実だつた。が、それと同時に、何だか気恥しいやうな、何ものにか済まないやうな気も起らないではなかつた。そして、それは動もすると、坊間の「ブルヂヨアに対する反感」に似たものへ、迎合されさうな気さへした。
一時間ほど居て、僕たちは其処を出た。
「どうだい。ダンスは?」僕は一緒に大人しく見てゐた、O君とS君とに云つてみた。
「うむ。新時代の女性も悪くないが、あゝいふのゝ仲間入りは少々恐入るね。僕には到底エトランゼエだ」
「ダンスなんて一種のぐわんみたいなもんぢやないですか。僕には迚も正視する事が出来ない位ゐですね。…