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青春の天刑病者達
せいしゅんのてんけいびょうしゃたち
作品ID46892
著者北条 民雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 北條民雄全集 上巻」 東京創元社
1980(昭和55)年10月20日
初出「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社、1980(昭和55)年10月20日
入力者Nana ohbe
校正者富田晶子
公開 / 更新2016-12-05 / 2016-11-23
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

霧の夜




 黒ぐろとうちつづいた雑木林の間から流れ出る夜霧が、月光を浴びて乳色に白みながら見るまに濃度を加へて視野遠く広がつた農園の上を音もなく這ひ寄つて来る。梨畑が朦朧と煙つた白色の中に薄れてしまひ、つらなつた葡萄棚の輪廓が徐々に融かされてゆくと、はるか向うの薄暗く木立の群がつたあたりにちらちらと見えがくれする病舎や病棟の燈もぼんやりと光芒がただれて、眼のさき六七間の眼界を残したまま地上はただ乳白の一色に塗り潰されてしまふ。やがて湿気を吸ひ込んだ着物のすそにしつとりと重みを感じ始めると、のろのろと歩いてゐる素足にひやりと冷気を覚え、私は立停つて利根子の方にちらりと視線をやつた。彼女は二三歩ゆきすぎてから足を停めたが、さつきから頬をふくらませておこり続けてゐ、立停つても私の方を見ようともせず仄白くつつ立つたまま体を堅くしてゐる。声をかけて見ようと思つた気持もそれに圧さへられて、私は黙々とまた歩き出した。一体どうしてみづ江と私とが結婚することをこんなに強く利根子が望んでゐるのか、私にはまことに不可解であつた。みづ江に頼まれたのであらうかと一応は考へて見たが、みづ江の日頃の態度を考へて見ると、決してさうでないと思はれる。それでは私がみづ江を真実の心から愛してゐるものと思ひ込んでゐるのであらうか。或はまた、私とみづ江とがその一歩を超えた関係をもつてゐるとでも思つてゐるのであらうか。
 むつつりと口を噤んだまま、私より五六歩あとになつて利根子は歩き出したが、不意に
「兄さん!」と鋭く呼びかけた。が私は足を停める気にもならず、霧を眺めながら歩いてゐると、彼女はばたばたと跫音を立てて私に追ひつき、
「あなたはあの人がどうなつても構はない、つて気持なの、他人の愛情を踏み躙るつてことが罪悪だとはお思ひにならないの。」とけしきばんだ口調である。それではやつぱり利根子は、私がみづ江と深い関係におちてゐるものと思ひ込んでゐるのか、しかしそれは誤りといふものだ。
「返事をなさる気もあなたにはないの。」
 彼女はもう眼を光らせながらつめ寄って来た[#「寄って来た」はママ]。
「お前のやうにさう昂奮ばかりしてゐてはどうにも困つてしまふぢやないか。」といひながら私は、堅く結んだ義妹の唇を眺めた。そしてこの療養所へ這入つてからの二ヶ年間の異常な生活にもあまり影響されず、昔ながらの一本気な素朴な激しさでものごとにうちかかつて行く彼女の性質に、私などの持ち得ない強いものを感じさせられた。がそれと同時に、素朴な一本気の故に彼女は意外なところで脆く敗れてしまひさうな危なさが私には感ぜられてならない。
「兄さんはわたしをからかつてゐるの? わたしがどんな気持ちでゐるか少しは判つてくれてもいいじゃないの[#「いいじゃないの」はママ]!」
「そりやね利根、判る部分だけは判ってゐる[#「判ってゐる…

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