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月日
つきひ
作品ID46893
著者北条 民雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 北條民雄全集 上巻」 東京創元社
1980(昭和55)年10月20日
初出「北條民雄全集 上巻」創元社、1938(昭和13)年4月25日
入力者Nana ohbe
校正者富田晶子
公開 / 更新2016-08-16 / 2016-08-16
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 一歩一歩注意深く足を踏みしめて、野村は歩いた。もう二年間も埃芥にまみれて下駄箱の底に埋もれてゐた靴であつたが、街路を踏みつける度に立てる音は、以前と変りのないものであつた。電車、自動車、馬車、その他凡ての都会の音響が、盛り上り、空間を包んで野村にぶつかつて来たが、靴音はやはり足の裏で小さく呟いて、彼の体を伝つて耳許まで這上つて来た。野村は今かうして自由に街を歩き廻つてゐる自分を考へると、解き放たれた、広々としたよろこびを覚え、大きな呼吸を幾度も続けざまにやつて見た。
 夕暮だつた。四季のない街ではあるが、それでも店々には秋の飾りつけがしてあつた。太陽の落ちたばかりの街路は、まだ電光に荒されないで、薄闇が路地から忍び出て来た。
 野村はふと立停つた。巨きなビルディングの横だつた。細い小路が建物の間を暗い裏町に抜けてゐる、その角に、彼は立つて、
「かういふ所でも蟋蟀がゐるだらうか?」
 つまらないことだと思ひながら、やはり彼はさういふことを考へた。黒い芥箱が一つ立つてゐて、紙屑や破れた草履が箱の周囲に散らばつてゐた。
「ひよつとすると一匹くらゐは住んでゐるかも知れない。」
 しかしすぐそれが馬鹿げた考へであることに彼は気づいた。そして淋しく思つた。蟋蟀がゐないといふそのためではなかつた。街の真中に立つて、こんなことしか考へなくなつた自分が、完全に社会の動きから遊離してしまつたのに気づいたからだつた。
 彼は三年間の生活を考へて見た。癩にかかつて以来、草深い療養所で送つたその月日は余りにも彼自身には深刻な、そして社会にとつては無意味な苦しみの日々であつた。そこには日毎に朽ち果てて行く不治の病者が、なほ残された個我の生命力に引きずられて、陰惨極まりない生活を描いてゐる。そこに投げ込まれた野村にとつては、それまで持ち続けた思想的支柱も意慾も、濁流に呑まれた木片程に無力であつた。勿論激しい苦悶であつた。苦闘であつた。けれど結局は、流された萍がその漂着した池に落ちつき、白い根をおろすやうに、彼もやはりこの灰色の病者の世界に根をおろし、日々を生きて行かねばならなかつた。
「廃兵。」
 そしてこれに満足しようがすまいが、それは問題でなかつた。さうなつた事実はもうどうしやうもない。
 彼は急ぎ足に歩き出した。今夜の十時までには療養所に帰らなければならない。家事の整理、といふ名目で一週間だけ療養所から解放された、その最後の日であつた。
 彼は病気のことを考へた。この執拗な業病は勿論不治に定つてゐる。けれどまだそんなに重病者ではない。まだ三年や五年この社会で暮しても誰も怪しみはしない。そして今自分は街の真中に立つてゐる。療養所へ帰るか帰らぬか、これは自らの意志の自由である。逃走するならば絶好の機会である。
「兎に角Hの家を訪ねてみよう。」
 さう思つてS駅へ這入つて行つた。Hは古…

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