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道化芝居
どうけしばい
作品ID46894
著者北条 民雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 北條民雄全集 上巻」 東京創元社
1980(昭和55)年10月20日
初出「中央公論」1938(昭和13)年4月号
入力者Nana ohbe
校正者富田晶子
公開 / 更新2016-12-11 / 2016-09-09
長さの目安約 93 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 どんよりと曇つた夕暮である。
 省線の駅を出ると、みつ子はすぐ向ひの市場へ這入つて今夜のおかずを買つた。それを右手に抱いて、細い路地を幾つも曲つて、大きな工場と工場とに挟まれた谷間のやうな道を急ぎ足で歩いた。今日は会社で珍しく仕事が多かつたので、まだタイプに慣れない彼女の指先はひりひりと痛みを訴へたが、それでも何か浮き浮きと楽しい気持であつた。こんな気持を味ふのも、もう何年振りであらう、ふとそんな感慨が彼女の頭に浮ぶのである。これからは少しづつでも自分達の生活を良くしなくちやあ、ここ二三年の生活はあまりにみじめであつた――。しかし彼女はふと夫の山田の顔を思ひ出すと、瞬間何故ともなく不安な気持に襲はれた。またあんな苦しい生活が来るのではあるまいか、といふ暗い予感が自然と頭に流れて来るのだ。が彼女は急いでその不吉な考へをもみ消すと、夏までにはもつと上等なアパートへ引越さうか、いやそれよりも今はもつと辛抱して来年になつたら家を持たう、それまでは出来る限り切りつめてお金をためよう、などと考へ耽るのであつた。
 彼女は足をとめた。没落者、ふとさういふ言葉を思ひ出したのである。彼女は口許に薄つすらと微笑を浮べると、わたしにはわたしの生活が一番大切、と強く頭の中で考へた。そして、何時までもそんな言葉が、意外なほどの執拗さで自分の中に潜んでゐるのに驚いた。
 工場街を抜けると、ちよつと樹木などが生えた一郭があつて、そこに彼女のアパートはあつた。工場の職工などを相手に建てられた安つぽい木造で、このあたりにはさういふ家が二三軒あつた。彼女はさつき市場で買つた新聞の包みを習慣的に左手に持ち換へると、とんとんと階段を昇り始めた。すると階下から、
「お手紙ですよ。」
 と呼ぶおかみさんの声が聴えた。急いでそれを貰ふと、また階段を昇りながら裏返して見た。一通は学校時代の友達の筆蹟であつた。この友達とはもう四年ほども交はりが跡絶えてゐたのであるが、彼女はこの頃この友達との交はりを復活させたいと願つて、二十日ばかり前に書いて出したことがあつた。恐らくはその返事であらう。彼女は他にもかういふ友達の二三にその時一緒に手紙を書いたが、返事は今まで一通もなかつた。だから彼女は自分の手紙から二十日も経つてゐたので、その遅いことにちよつと不満を感じたが、しかしやはりうれしくもあつた。
 他の一通は全然未知の名前で、おまけに自分の住所も何も書いてなかつた。
「辻 一作。」
 彼女はドアの鍵をがちやがちやと鳴らせて室に這入ると、立つたままその手紙の裏を見、表を見しながら呟いた。誰だらう? 勿論夫あてのものであるが、山田の友達ならたいてい彼女は知つてゐた。彼女は夫の友達を――もつとも今は全く友達もなくなつてゐるが、――次々と思ひ出して行つたが、さういふ固有名詞は探しあたらなかつた。すると何故ともなく不安に…

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