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![]() けいじつざっき |
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作品ID | 46904 |
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著者 | 北条 民雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 北條民雄全集 下巻」 東京創元社 1980(昭和55)年12月20日 |
初出 | 「科学ペン」1938(昭和13)年 |
入力者 | Nana ohbe |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2010-10-22 / 2016-02-02 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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朝、起き上るたびに私は一種不可解な気持をもつてあたりを見廻さずにはゐられない。夜が明けるたびに起き上つてはごそごそと動き始める日々といふものを、もう二十年あまりも続けてゐるのであるが、しかしこの単調さにも腐敗しない人間の心理といふものはなんといふ不思議さであらう。況や起き上るたびにもう動き出さうとむづむづしてゐる肉体を感ずる時、いつたい人間を何と解いたら良いのであらうか。睡眠という空白の時間をこの場合に持ち出すのは人間に対する侮辱である。切実にベルグソンの哲学を読みたいと思ふのもかういふ時である。
フロオベルの全集が届いて以来、私は毎日驚いてばかりゐる。峻厳胸を刺す驚きである
私は癩文学などいふものがあらうとは思はれぬが、しかし、よし癩文学といふものがあるものとしても、決してそのやうなものを書きたいとは思はない。今までにも書いたことのないのは勿論、また今後も決して書くまいと思つてゐる。我々の書くものを癩文学と呼ばうが、療養所文学と呼ばうが、それは人々の勝手だ。私はただ人間を書きたいと思つてゐるのだ。癩など、単に、人間を書く上に於ける一つの「場合」に過ぎぬ。
癩者を救ふ第一の道は、癩者のもつ屈辱感を除去するにある。この点を些かも考慮せぬ癩運動といふものは、よし現在までは意義あるものとするも、以後はあまりに意味がないであらう。と、まあ、私も一応は言つてみたが、諸君よ、癩運動が癩者のためのみのものであるなどとは、夢あまたれる勿れ。
作家は批評、文学論など、一切発表してはならぬ。何故なら、自分の発表した議論によつて自分を束縛し、或は意見を述べることによつて自己弁護するからである。私は一切意見を公表せぬことに定めた。凡ては作品にある。
人々はどうしてああも虚偽が好き好きなのか。私には誠に不可解である。
しかし我々はどうしてかうも真実を求めるのであらうか。これもまた不可解である。
そして解つてゐることは、幸福は虚偽の中においてのみ存在するといふことである。真実を求めるのが不幸だといふのではない。勿論ここに幸福があるというふのでも断じてない。ただ真実を求める精神においては、幸不幸といふ言葉は既に消失してゐるのだ。だから不幸といふことも亦虚偽の中にのみ存在する一つの心理状態である。
実際家と現実家とを混同する勿れ。
「僕はね、癩者の最も正しい行為は自殺だと思ふんだよ。癩は国辱なりつて言ふだらう、あれは真実だと思ふ。そして癩は国辱といふよりも人類の恥辱、人類の汚点だと思ふのだ。社会に対し、人類に対して、真摯な愛情をもち、その発展や進歩を信ずるなら、我々は一日も早く自殺すべきなのだ。」
「うん。君の言ふことは僕は別段否定しないよ。しかしだね、いいか、君の言ふ人類といふ奴にだね、癩者が犠牲になるほどの価値があるかどうか、先づ疑問だよ。癩者だつて人間な…