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青年
せいねん
作品ID46973
著者北条 民雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 北條民雄全集 上巻」 東京創元社
1980(昭和55)年10月20日
入力者Nana ohbe
校正者富田晶子
公開 / 更新2017-09-22 / 2017-08-25
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

第一章

 朝のうちに神戸港を出帆した汽船浪花丸がひどくたどたどしい足どりで四国のこの小さな港町に着いたのは、もうその日の夕暮であつた。まだ船がかなりの沖合に動いてゐる時分から、ばたばたと慌しげに洗顔に出かけたり、狭い三等船室でよろけながら身仕度を始めたりしてゐた客たちは、もうわれ先にとひしめきながら甲板に押し寄せて行くのだつた。十一月の上旬で、空はどんより曇つて、なんとなく降り出して来さうな気配が感ぜられ、海はその空を映して、青黒い無気味な色に波立つてゐた。
「なんやら降りさうだんな。」
「ほんまに、雲行きが悪うおますわ。」
「こりやあ待合所で傘買はんならんぞなもし。」
 空を見上げながらさういふ心配げな会話が聴えたかと思ふと、一方では苛立たしさうに、
「早う船を着けんかい、なにさらつしよる、ぐづぐづするな!」
 と、二三人が一度に喚き立てるのであつた。彼等は各自に振分け荷物や、一眼で安物だと判るやうなトランクをぶら提げてゐた。大部分が百姓であることはその着物の着こなしやシャツや、赤黒く陽焼けした顔や手で明かである。多分、大阪や神戸へ働きに出てゐる息子や娘のところへ、一晩宿りくらゐで出かけての帰りであらう。船はのろのろと桟橋に近寄つてゐる。どなつても喚いてもなんにもならないのであるが、彼等はただやけに喚き立てては苛立つのであつた。甲板に吹きつけて来る風はかなり冷たく、水洟をすすつてゐる老婆などもあつた。腕に赤い布を巻いた三等ボーイが、そのまはりを駈け廻りながら、
「あぶない、あぶない、縁寄つたらあかん、あかんちふに!」
 と絶間なく叫び続けてゐる。着港の汽笛が鳴り、ガラガラと錨をおろす音が始まつた。
 もう二十二三になるかと思はれる青年が一人、さういふ騒ぎをよそにして、さつきから船首の甲板に立つて、じつと港町を眺めてゐた。彼の足下には、小さなトランクが一個横はつてゐる。身なりはかなり上等なもので、濃い青地の中に、細い赤が品良く縞に這入つた背広をきちんと着て、帽子は脱いで背後に組んだ手にぶら提げてゐた。頭髪は真黒で非常に厚く美しかつたが、油気が全くないので、ばさばさになつて風になびいてゐる。彼は船がまだずつと沖にゐる頃から、ここにかうして立ち続けてゐるのだつた。恐らくは心の中に悩ましく気がかりなことがあるのであらう、時々苛々した様子で額に立皺を寄せて見たり、さうかと思ふと急に太々しい微笑をにやりと浮べて、ふん、と鼻を鳴らせたりするのだつた。そのくせさういふ微笑を浮べた後では、ほんの瞬間ではあるが奇妙に放心したやうな虚ろな表情が浮んで、それがひどく彼の表情の変化に特長を与へてゐた。彼は美男子といふ訳にはいかなかつたが、かなり特異な風[#挿絵]を具へてゐた。年は一見二十二三には見えるのだが、実はまだ十九であつた。それといふのも、特長のある顔つきや、若者のくせに深…

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