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無題Ⅰ
むだいいち
作品ID46975
著者北条 民雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 北條民雄全集 上巻」 東京創元社
1980(昭和55)年10月20日
入力者Nana ohbe
校正者フクポー
公開 / 更新2018-06-07 / 2018-05-27
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 太陽はもう山の向うに落ちてしまつたが、まだあたりは明るかつた。
 さつきから余念もなくざぶざぶと除草器を押してゐた仁作は、東手の畦につくと、ほつと一息ついて立停つた。さすがに、体はもうぐつたりと疲れ切つてゐた。彼は水田の中に立つたまま、腰から煙管を取り出して一服つけながら、ずつと遠くまで続いた青田を見渡してみた。どの田圃にもまだ女や男が除草器を押しながら行つたり来たりしてゐる。しかしもうみな疲れが出てゐると見えて、働き振りがのろくさくなつてゐるのが遠くからでも判つた。田面には撫でるやうな微風が吹き出して、汗ばんだ仁作の胸の中に流れ込んで来た。その胸に思ひ切り煙を吸ひ込むと、ふとまた例の疑問が頭に湧いて来た。
 なんだつて日が暮れてまで働かにやならんのだらう。なんぼ一生懸命に仕事したところで、半分は地主のところへ持つて行かなけりやならない。税金だつて満足に払へやしない。税金なんかまだいいとしても、もう間もなく夏の終りが来ると、一番早稲の「小桜」が熟れるまで食ふ米がなくなり、土方か何かで働いて買はねばならない。
 かういふ考へは、懸命に働いてゐる時には勿論忘れてゐた。しかし夕方になつて、体がぐつたりと綿のやうになり出すと、心の底から汚点のやうに浮き出して来る。するとまだ二十二の仁作は、なんとなく苛々して来て、何者にとも見当のつかない憤怒を覚えた。
 草除りは盆までに五回、この地方ではやることになつてゐた。今は三回目だから、三番草である。しかし彼は何時でも四回までしかやらなかつた。あとの一回は妹のかねや母に任せて、川口の製材所に川岸人足に出かけるのだ。
 考へたつて何にもなりやせん。仁作は本能的にさう思ふと、くるりと向き直つてまた除草器を押し始めた。二年前にブラジルへ移つて行つた友達の顔が浮んで来たが、彼は無理にそれを払ひ落して、やけに除草器を進めた。ブラジルなんかへ行つたところで、どうせろくなことないに定つとる、――彼は、いつそあの時その友達と一緒に行けばよかつたと、今ではひどく羨ましかつたが、羨ましいと思ふのが癪だつたので強くさう頭の中で断定した。がばがばの除草器は泥水の底を潜つて音を立てた。青々としなやかな稲の葉が、仁作の股や、ふくらはぎをさした。彼は時々立停つて、倒れかかつたのがあると、それを真直ぐに立ててやつたり、発育の悪いのは抜き取つて、ところどころに「間植」してあるのと取り換へてやつたりした。
「兄さん、もう仕舞はんでな。」
 その時、森の向うで働いてゐた妹がやつて来て声をかけた。彼女は除草器をかついで、畦に立つて兄を見てゐた。
「おお。」と仁作は不機嫌さうに返事して振り返つた。「向うはもう除つてしまうたんか?」
「うん。ここ、手伝うて行かうか?」
「ええわい。俺も帰なう。」
 仁作は畦につくと、まだ泥水の滴り落ちる除草器を肩にかついで、跣のまま歩…

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