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人形芝居に関するノオト
にんぎょうしばいにかんするノート
作品ID47065
著者竹内 勝太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆 別巻81 人形」 作品社
1997(平成9)年11月25日
入力者浦山敦子
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-07-29 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「詩は僕の鏡である。」 [#挿絵]レリー
 巴里シャン・ゼリゼェの林のなかに二つの小屋があって、今でも日曜祭日毎に昔ながらのギニョール、手套式の人形芝居が学校や家庭から解放された子供達を喜ばせて居る。その小さい粗末な舞台で演じられる人形の所作を見て少年等は笑い興じ、手を拍って、現実の世界を忘れて居る。それ等の活きいきした声を聞けば何人も遠く、幼い日の生活を思い出さずにはいられないだろう。私は室内に籠居する仕事の疲れを休める為に、秋の晴れた午後はよく街や郊外の森を散歩して廻ったが、その途すがら運よくこの人形の小屋が開いているのに出会うと、度々その前に立止ったものだった。元よりそれは全く単純で貧しい技術を持った人形芝居に過ぎない。然し誰がそれを軽蔑し得よう。少年ゲーテが故郷フランクフルトで旅廻りの人形芝居を見た印象から、後年あの大作「ファウスト」を書いたように、此の巴里のギニョールも沢山の仏蘭西少年の心のなかに、人類の至宝ともなるべき大きな夢を今現に育てつつあるのかも知れない。

     *

 欧羅巴では現在の処一般に人形芝居は子供の為めのものとされているが必らずしもそうではない。大人も之れを見て楽しんだことは東洋諸国と共に歴史が古い。伊太利では遠く羅馬時代から相当立派な人形芝居が存在していた。下って十六七世紀にはベニス、ボロニヤ、ミラノ、ナポリ等の土地にそれぞれの人形芝居が発達していた。之れは糸操りの人形である。それが近代に入って殆ど衰滅に瀕していたのが復興され、再生されてピッコリ座となり、一九二八年の冬のシーズンに華々しく巴里に御目見得した。
 之れはよく統制された組織と熟達した技術とを持って居り、然も優勢な近代劇術(照明と舞台装置)と音楽とを伴っていたので、忽ち巴里劇壇の一部を席捲して、確固とした地歩を占めた。加之、直ちにこれの追従者と模倣者とが現れたのを見ても影響の大きさを想像することが出来る。勿論その座席の大部分を満たしたのは大人であって、私達も子供達と同じように喜んで之れを亨楽したのである。
 そこに大人も子供も差別はなかった。畢竟大人も絶対の世界では子供に過ぎないのであり、子供も真理の世界では大人と全く同一だからである。

     *

 唯茲に注意しなくてはならぬ相違点がある。それは欧羅巴の人形芝居は常に使い手が陰にかくれて見えないのに、日本ではあからさまにそれが舞台に現れる点である。文楽は元より結城の糸操りでも使い手が天井の上にいて観客に姿を見せる。之れは人形の芝居と云う点から見れば舞台に人間の見えぬ方が合理的であり、見えるのは非合理的である。
 然しながら芸術は必らずしも合理的なものが進歩したものでなく、反対に非合理的なものの方が遥により高い位置にいることがある。何故なら元来芸術の世界が非合理的な世界であり、否既に創作それ自身が実は非合…

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