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山陰土産
さんいんみやげ |
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作品ID | 4710 |
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著者 | 島崎 藤村 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「現代日本紀行文学全集 西日本編」 ほるぷ出版 1976(昭和51)年8月1日 |
初出 | 「大阪朝日新聞」1927(昭和2)年7月~9月 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2005-10-22 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 106 ページ(500字/頁で計算) |
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一 大阪より城崎へ
朝曇りのした空もまだすゞしいうちに、大阪の宿を發つたのは、七月の八日であつた。夏帽子一つ、洋傘一本、東京を出る前の日に「出來」で間に合はせて來た編あげの靴も草鞋をはいた思ひで、身輕な旅となつた。
こんなに無雜作に山陰行の旅に上ることの出來たのはうれしい。もつとも、今度は私一人の旅でもない。東京から次男の鷄二をも伴つて來た。手荷物も少なく、とは願ふものの、出來ることなら山陰道の果までも行つて見たいと思ひ立つてゐたので、着更へのワイシヤツ、ヅボン下、寢衣など無くてかなはぬ物の外に、二三の案内記をも携へてゆくことにした。私達は夏服のチヨツキも脱いで、手提かばんの中に納めてしまつた。鷄二は美術書生らしい繪具箱を汽車のなかまで持ち込んで、いゝ折と氣にいつた景色とでもあつたら、一二枚の習作を試みて來たいといふ下心であつた。畫布なぞは旅の煩ひになるぞ、さうは思つても、それまで捨ててゆけとはさすがに私もいへなかつた。かうして私達二人は連れ立つて出かけた。汽車で新淀川を渡るころには最早なんとなく旅の氣分が浮んで來た。
關西地方を知ることの少い私に取つては、ひろ/″\とした淀川の流域を見渡すだけでもめづらしい。私も年若な時分には、伊賀、近江の一部から大和路へかけてあの邊を旅し[#挿絵]つたことがあつて、殊に琵琶湖のほとりの大津、膳所、瀬田、石山あたりは當時の青年時代のなつかしい記憶のあるところであり、好きな自然としては今でもあの江州の地方をその一つに思ひ出すくらゐであるが、それから三十年あまりこのかた、私の旅といへば、兎角足の向き易い關東地方に限られてゐた。私は西は土佐あたりまでしか知らない。山陰山陽方面には全く足を踏みいれたことがない。山陰道とはどんなところか。さう思ふ私は、多くの興味をかけて東京を發つて來たと同時に、一方には旅の不自由を懸念しないでもなかつた。地名のむづかしさには、まづ苦しむ。しかし、鷄二とさし向ひに汽車の窓際に腰かけて、一緒に乘つてゆく男女の旅客の風俗を眺めたり、大阪の宿からもらつて來た好ましい扇子などを取り出して見たりするころには、私もこの旅に上つてくるまでのいろ/\な心づかひを忘れてゐた。
大阪近郊の平坦な地勢は、甲、武庫、六甲の山々を望むあたりまで延びて行つてゐる。耕地はよく耕されてゐて、ぶだう畠、甘藷の畠なぞを除いては、そこいらは一面の青田だ。まだ梅雨期のことで、眼にいるものは皆涼しく、そして憂鬱であつた。伊丹から池田までゆくと、花を造つた多くの畠を見る。街路樹のベツドかと見えて、篠懸の苗木が植ゑてあり、その間には紫陽花なぞがさき亂れてゐた。さすがにその邊までは大阪のやうな大きな都會を中心に控へた村々の續きらしくも思はれた。
大阪から汽車で、一時間半ばかり乘つてゆくうちに、はや私達はかなりの山間に分け入る思…