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流行唄
はやりうた
作品ID47168
著者兼常 清佐
文字遣い新字新仮名
底本 「音楽と生活 兼常清佐随筆集」 岩波文庫、岩波書店
1992(平成4)年9月16日
入力者鈴木厚司
校正者小林繁雄
公開 / 更新2008-01-14 / 2014-09-21
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

      1

「流行唄というのは一体どういうものでしょう。」――ギンザ或春の夜、剽軽な雑誌記者が私にそんなことを聞いた。
 難問である。一口にそれに答える事はむずかしい。それに答えるにはギンザを四丁目からシンバシまでくらい歩かなければならない。ただ流行唄はどんなものでないかという事なら、私には五歩行く間に明瞭に答えられる。――流行唄はラジオの国民歌謡のようなものではない。
 流行唄には気分と感情がある。やさしさがある。なつかしさがある。暖さがある。捉われないものがある。強いられないものがある。二十四時間の周期で必ず私共の耳にはいって来る規律的な、計画的な音楽などは、どうも流行唄という事からは縁が遠い。また私も国民歌謡が非常に流行しているという話を聞いた事がない。
 シュトルムは『湖畔』の中にこう書いている。――「流行唄は作られるものではない。空から降って来て、陽炎のように地上を飛びまわる。彼処でも此処でも至る処で人々に唄われる。我々の事業も煩悶も流行唄の中に唄われている。結局我々が総がかりで流行唄を作り上げるようなものである。」
 流行唄というのは正にこのようなものである。国民歌謡のようなものではない。
 シュトルムが『湖畔』を書いてから百年の年月がたっている。今では流行唄もよほどその形を変えて来た。それはニッポンでも同じ事である。まず変ったところは作曲者や詩人がその存在を主張して来たことである。昔の流行唄も、もちろん誰か作った人があるに相違ない。『追分ぶし』も『キソぶし』も『リキューぶし』も作る人がなくては出来るわけはない。しかしその当時の社会では、それを作るという事が、その作った人の存在を主張するほどに値しなかったであろう。作った人も強いてその存在を主張しなかったであろう。それで今から見れば、そのような唄はいつともなく、誰の手からともなく、出来たもののように見える。ある地方の人々の間から全く自然に出来上ったもののように見える。ちょうど野に自然の花が咲き、森に自然の鳥が鳴くようなものに見える。

 今では流行唄を作るという事は、相当な仕事になる。経済的な価値を持っている。またその上に作曲者はそれで社会の名声を博することも出来る。流行唄を作った人は、作ったという事を自分の名で主張しなければ損である。それで今の私共には流行唄と同時に、それを作った人のことも関心の的になる。実際大正から昭和にかけて私共は沢山の美しい、おもしろい流行唄を得た。そしてそれと同時に、それを作った人、例えばナカヤマ・シンペエという名は私共には古典的な名になった。
 このような事では、近頃の流行唄はよほど芸術的な音楽に似て来た。私共はナカヤマ・シンペエの流行唄というおなじような意味で、シューベルトの「リード」とかショパンの「エテュド」とかいうように言う。それはその人でなくては出来ないも…

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