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桑の実
くわのみ |
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作品ID | 47173 |
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著者 | 鈴木 三重吉 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「現代日本文學大系 29」 筑摩書房 1971(昭和46)年6月25日 |
初出 | 「国民新聞」1913(大正2)年7月~10月 |
入力者 | kompass |
校正者 | みきた |
公開 / 更新 | 2017-06-27 / 2017-04-18 |
長さの目安 | 約 176 ページ(500字/頁で計算) |
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一
おくみが厄介になつてゐるカッフェーは、おかみさんが素人の女手でやつてゐられる小さい店だけれど、あたりにかういふものがないので、ちよい/\出前もあるし、お客さまもぼつ/\来て下さるので、人目にはかなりにやつて行けるらしく見えたが、中へ這入つて見ればいろ/\あれがあつて、おかみさんは、月末になると、よく浮かない顔をして、ペンと帳面を手に持つたまゝ、茫やりと一つところを見つめてゐられるやうなことがあつた。
おくみは自分がいつまでもぶら/\とこゝにかゝりものになつてゐるのが済まないやうな気がして、いつも自分で先へ/\と用事を求めて働くやうにしてゐるのだけれど、料理場の男と店の方を受持つてゐるてきぱきしたお安さんともう一人の女中との外に、下を働く下女が一人、出前持の小僧が一人ゐて、それへおかみさんも出来るだけは立ち働いてゐられるので、おくみはたゞ十になられるあき子さんと小さい男のお子さんの面倒を見るのと、一寸したお針なぞをしたりする外には、これとてすることもなかつた。
「おくみさん、もうお寝みなさいな。十二時よ。私もそろ/\目をつぶりかけるわ。」
夜分なぞ、おくみはもうするだけの事はして了つて、客のない店の鏡のところへ出て悄んぼりと髪なぞ解いた後、窓の硝子を通して、向うの、郵便局をしてゐる家の赤い電球を、見るともなく見入つて立つてゐると、おかみさんが所在なさ相な顔をして出て入らつして、椅子を片寄せながらかう言つて、眠さうな欠伸をなさる。
女中のお安さんは、多い髪のハイカラな巻きかたに、黄色い厚い留櫛を見せて、向うのテイブルに俯ぶした儘、正体もなく居眠をしてゐる。
「雨でも降つてるのか知ら。変にしつとりしてるやうだわね。」
「さうでございませうか。」
入口の硝子戸を開けておくみは覗いて見た。雨ではないけれど真つ暗い夜である。店の少い通とて、もうどこにもすつかり戸を入れてゐて、人の往き来もない。頭の上には、たつた一つ黒く消えかけた星が、小さい詛ひのやうに瞬いてゐる。
おくみは戸をしめておかみさんの方へ来る。外を見た目で店を見れば、水の中かなぞのやうに青いガスの漲つた室内には、すべてのものが昼のやうに光つて見える。少しもあくどい飾りなどのない、さつぱりした店である。よくこゝへ来られる青木さんが画かれた、西洋の女が椅子にかけてゐる画と、黒い壺にさま/″\の色の花をさしたのとの、二枚の小さい油画が、テイブルかけの玉子色の上に際立つて見えた。
二階には女づれの西洋画家と、つれの一人とがまだカルタを引いてゐた。
かういふつゞきから、おくみはおかみさんがぽつねんとかけてゐられる椅子のところに彳みながら、さつきも頻りに考へたやうに、自分のこれからの振り方について惑ふ心持をおかみさんに話した。
「だつてなまじつかなところへ奉公なんかすると、身をしくじる元だから、それ…