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大衆物寸観
たいしゅうものすんかん
著者国枝 史郎
文字遣い新字新仮名
底本 「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」 作品社
2005(平成17)年9月15日
初出「名古屋新聞」1926(大正15)年1月6日
入力者門田裕志
校正者きゅうり
公開 / 更新2019-03-20 / 2019-02-22
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 中里介山氏の「大菩薩峠」は、実に素晴らしい作である。大デュマなんか飛び越している。だがユーゴーを持って来るのは、まだ少し早いかも知れない。机龍之介の性格描写は、前古未曾有といっていい、筋の通った登場人物が、廿人ぐらいはあるだろうが、それぞれクッキリと描き分けた手際は、将に巨匠といっていい。龍之介と対抗すべき人物は、新思想家の駒井能登守であるが、洵に立派に描かれている。まだ未完ではあるけれど、既刊の分だけを読んだ所では、幕末を舞台のオーケストラ、こういい度いような気持がする。取り入れている仏教思想は、真言と禅だというようなことを、或る友人から聞いたことがあるが、門外漢たる私には、その方面のことは解らない。
「あった」調と「ありました」調とを、平気で自由に混用し一種の味を出しているのは、文章度胸が大きいからで、そうして是が自然でもある。本来人間の会話なるものが、「あった」と云ったり「ありました」と云ったり、チャンポンに使われているものである。それだのに一端文章となると「あった」調で一貫させたり「ありました」調で一貫させたりする。(私なども然うである)これは間違っている。純文壇の方面では、小川未明氏が中里氏と同じく、「あった」と「ありました」とを混用し、矢張り、味を出している。けっきょく創作というものは、広義に於ける人間社会を(人間社会に必要な、天然界をも含んだものであるが)まず対象とするものであるから、人間社会で使っている言葉を、そっくり持って来て使えばよいので、それを為ないということは、屹度文章を作る場合にかしこまるからに相違無い。
 だが貧弱な文章論なんか、まず何うでもよいとしよう。
 長谷川伸氏の大衆物も、洵に勝れたものである。亢奮もせずダレもせず、ピンと張り切った地味の文章で、極めて克明に書くのであるが、それでいて興味は無限である。特趣の材料を持って来ることも、興味のある大きな原因らしい。「討たせてやらぬ敵討」これは同氏の近著であるが、表題からして特異である。そうして中味も特異である。
 大方の現今の大衆物は、英雄崇拝熱から醒めていない。強い人間は無暗に強く、弱い人間は矢鱈に弱く、悪い人間は何処迄も悪く、善い人間は最後まで善い、こんな塩梅に書かれている。講談式であり草双紙式である。本当の人間は書かれていない。恰度新派の芝居なるものが、本当の人間をウツして来ずに、甘く低級に理想化された、侠芸者だの悪弁護士だの、屹度出世する苦学生だの、天女のような令嬢だのを、所謂る善玉悪玉式に、ウヨウヨ舞台へ現すように大衆物の中へも現して来て、読者へ偽善ばかりを強いている。
 所が長谷川氏の大衆物になるとそういう欠点は見られない。殆ど一人の英雄もいない。命の惜しい侍や、ブルブル顫えている泥棒や、どうにも仕方の無い安手ゴロや、そんなものばかり現れて来る。血の通っている人間で…

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