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芸術と数学及び科学
げいじゅつとすうがくおよびかがく
作品ID47291
著者三上 義夫
文字遣い新字新仮名
底本 「文化史上より見たる日本の数学」 岩波文庫、岩波書店
1999(平成11)年4月16日
初出「数学史叢話 第二十一章―二十二章」輓近初等数学講座、共立社、1929(昭和4)年
入力者tatsuki
校正者山本弘子
公開 / 更新2010-12-01 / 2014-09-21
長さの目安約 41 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 われらは今この表題を掲げて少しばかり見るところを説きたい。人あるいはいうであろう。数学ないし諸科学と芸術とは全く相反し、その相互の関係はかつて存するところはない。全然無関係なものであろうと。あるいはそうかもしれない。大体においては、そういう傾向もあるであろう。
 現にわが国には美術界に竹内栖鳳等を初め多くの有力な巨匠があるが、これらの美術大家が数学なり、他の科学なりに通じているという事実はない。九条武子、柳原白蓮等の女流歌人にしても、同時に科学者ではない。普通に芸術家たると同時にまた数学者、科学者たる者を求めるならば、全然絶無ではあるまいけれども、おそらく絶無に近いであろう。
 この種の関係から論ずるときは、数学、科学と芸術との間に直接の関係はないといってよい。これにはわれらも異論はない、何人といえどもすべて同感であろう。
 事情かくのごとくなるにかかわらず、われらはあえてその関係を論題に掲ぐることをした。無謀といえば無謀であろう。いかに無謀であろうとも、われらはこれを明らかにしなければならぬ。われらは歴史的発展の上において、すこぶる密接な関係あるべきことを思う。これを了解して初めて溌溂たる意義の流れていることが見られるのである。これをもし[「しも」、あるいは「すら」]了解し得ないでは、歴史の流れの真の意義はつかみ得られぬのである。われらはあえてこの点に向かい論歩を進める。

〈一 和歌と俳句〉 わが国では江戸時代に多くの数学者が輩出した。多数の人物があるから、委細にこれを論ずるときは、種々雑多の分子が存したであろう。けれども江戸時代の算家について、芸術的の要素が多大に見られることはおおわれぬ。そのことについてはかつて「文化史上より見たる日本の数学」の篇中にも説き及ぶところがあった。
 中につきて、著しく目につくのは、江戸時代の算家には和歌や俳句の嗜みがすこぶる行き渡っていたことである。今村知商の『因帰算歌』(一六四〇)のごとく歌によって算術を記そうという企ても早くから見えている。
 一部の書物全体を通じてかくのごとき企てをしたものは、他に多く類例を求め難いけれども、書中に若干の詩歌を記したもののごときは、幾らも見られるのである。これらは初期以来の刊行算書中に、往々その例がある。
 関孝和、建部兄弟、松永良弼等のごとき諸大家がこの種のことに関係が有ったか無かったかについては、今ほとんどその証拠を得ることができない。それというのは年代がやや古く、多く史料の伝わらないからであったろう。幕末の諸算家になると、大概は和歌か俳句に、関係の無いものは無いというような有り様となる。山口和は越後水原の人で、広く諸国を遊歴したのであるが、その旅行の記事を見るときは、諸方で見聞した算題をも記しているが、また歌や俳句などをも盛んに記入している。これによりその人の趣味を見ることが…

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