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夜の浪
よるのなみ |
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作品ID | 4732 |
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著者 | 水野 仙子 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「水野仙子集 叢書『青鞜の女たち』第10巻」 不二出版 1986(昭和61)年4月25日復刻版 |
初出 | 「女子文壇」1913(大正2)年7月 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 小林徹 |
公開 / 更新 | 2003-01-23 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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どちらから誘ひ合ふともなく、二人は夕方の散歩にと二階を下りた。婢が並べた草履の目に喰ひ入つてゐた砂が、聰くなつてゐる拇指の裏にしめりを帶びて感じられた。
『いつてらつしやいまし。』と、板の間に手をつく聲が、しばらく後を見送つてゐることゝ、肩のあたりにこそばゆい思をしながら、あの女にも嫉妬を持つと民子は自分の胸のうちを考へた。綺麗な女ではない、けれどもそのおとなしさと、少くも自分がここに來るまでの幾日間を心にかけて朝晩の世話をしたといふことに――それは都で受け取つた手紙の中に書き插まれてあつた――嫉妬らしい思が湧くのである。明日は馬鹿らしいこの思に、愚しい懸念の輪を一つ一つかけながら、ここを離れて行かなければならない……と思ふと、うなだれ氣味に一足二足おくれて行く民子の前に、白絣の胴を締めた白縮緬の帶の先が搖れつゝあつた。
先の草履の音の行くまゝに民子は從つた。草の根に縋つて僅な崖を攀ぢる時、默つて握つたまゝ渡されるまゝに、默つてその手のぬくみの殘つた草の根を握つた。さうして小高い丘に立つた時、ふと振りかへつたとほりに民子もまた振りかへつた。遙に低く見える宿の二階の二人の部屋に、窓のカアテンが白く二人の目を捕へた。その小窓に倚りかゝつて、二人が見合せたあの時の目の微笑を思つた時、民子の胸は再びそのあぢはひを經驗した。
岬の中腹を低く高く導いて行く小道に、一つ二つ河原撫子のいたいけなのが叢の中に咲いてゐた。いつもならば大裟袈な表情の聲をあげて、危かしいところならば摘んでも貰ふものを、民子はたゞ認めるだけの目を注いで過ぎた。
世間を忘れて明した今朝も、晴々しい朝の氣になほ幾日かのたのしい夢が續くのを占つたかひもなく、午前の便で着いた姉からの手紙を披いて讀んで行くうちに、民子は間もなくここを去らなければならないことを覺悟した。二人の上に就て、たゞ一人の同情者である姉は、中一日を置いて歸國の旨を言ひ送つて來たのであつた。それには民子を伴ふことに就ては一言も書き及ぼしてはなかつたけれど、姉のみ歸つた時の母の失望と疑惑とを思つては、民子はどうしてもすぐにここを去らなければならないと思つた。それに今度の深い探い決心を持つて歸國するには、助言のために姉の感情も考へなければならなかつた。しかしそれはあまりに殘をしい悲しいわかれであるために、民子は歸るといふことに就てはまだ一言もいひ出さなかつた。
あらゆるものを彈いてたゞ二人が二人の息をしてゐた日は、僅ではあるが尊いものであつた。一またゝきにも、その唇の微なふるへにも、二人にのみ動く神經が、どうして一つの胸にばかり思の宿るのを見逃して置かう。民子の考は男の思であつた。
たとへ二人は間もなく二人の生活をはじめるのであるにしても、それはまたある時のことであつて、現在の滿足を失ふかなしみには、漸く見出すほどの慰藉に過ぎない…