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犬の威厳
いぬのいげん
作品ID4733
著者水野 仙子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「水野仙子集 叢書『青鞜の女たち』第10巻」 不二出版
1986(昭和61)年4月25日復刻版
初出「中央文學」1914(大正3)年2月
入力者林幸雄
校正者小林徹
公開 / 更新2003-01-23 / 2014-09-17
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

『あなたは、あなたの旦那樣の御容子をすつかりお氣に召してゐらつしやる?』と、いきなりよしのさんの言葉が私に向いて來た。
『え?』
 私はたいへんどぎまぎした。そんな質問が私の上にまで、利口な聽手になつて、默つてばかりゐた私にまで及んで來ようとは、ちつとも豫期しなかつたのである。
 それは先刻から隨分いろんな話が出だ。さうして今度結婚することになつた君島さんの大切な人の話から、男の風采つてものが暫く話題の花形になつた。男の仲間でいふ謂はゆる好男子と、女の眼から見た好男子とは形が違ふなんてことも大分言はれてゐた。
 私は話の切れめにふと顏をあげたのだつた。するといきなり『あなたは…‥』とよしのさんに水を向けられたので、ほんとに困つてしまつて、一寸の間下をむいてゐた。
『あゝ、さうださうだ、さうだ私は今、たつた今それを思ひ出した!』と、よしのさんは續いて調子はづれな聲を出して言つた。
 またふいと顏をあげてみると、やつぱりその目はちよいと私にそゝがれたけれど、どんなにその事を言ひ表したらいゝかにわくわくしてゐるやうな顏のうごきを見ると、私はすつかり安心してしまつた。
 私の話をひき出すやうに言ひかけたのは、よしのさん自身の話の冒頭だつたのだ。ふいと顏をあげたはづみがきつかけになつたゞけのことなんだ。
 で、私はまた安心して靜な聽手になつた。

『私は良人を崇拜してゐてよ、また愛してもゐるわ。(聲笑起る)まあ、笑ちつやいけないわ、おのろけのつもりぢやないんだから。仰しやるまでもありませんて? まあ、なんとでも仰しやい……でね、私は良人に對してこれつていふもの足りなさも持つてゐないけど、そりあ御馳走を喰べたがつたり、時々疳癪を起して――あれでて隨分疳癪もちよ、私を擲つたりするけれど、でも自分が惡いと思つた時にはあとですぐ謝るわ。でね、柄もあのとほり大きいし、さういつちやなんだけれど、風采だつてさう見すぼらしいことはないと思つてゐるのよ。
 それだのにたつた一つ私に滿足されないあるものがあるやうなの。それはあの人の性質でもなければ、顏でもなく、姿でもなく……さうね、それでゝやつぱり風采に關してゐることのやうなんだけれども、さうでもないやうなんだわ。なんていつたらいいでせうね、威嚴が缺けてる――いやいやさうぢやない、十分あの人には威嚴だつて備つてゐると私思つてるんだから。だのに、なぜかもつともつとどうかしてなけりあならないやうな氣がして仕樣がないのよ。
 それはそもそも私があの人を見はじめた時から、私の心はすつかりあの人の持つてゐるもので滿足してしまひながら、それでもなほどつかに、あるもの足らなさが潛んでゐたんです。
 ね、一體それはなんだと思し召して?
 だけど、それは良人にばかし懷く私の心持ぢやないんですの。世の中のありとあらゆる――少くも私の見たかぎりの男に、私はい…

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