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作品ID | 47382 |
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著者 | 島木 健作 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「島木健作作品集 第四卷」 創元社 1953(昭和28)年9月15日 |
初出 | 「中央公論臨時増刊号」中央公論社、1934(昭和9)年7月 |
入力者 | Nana ohbe |
校正者 | 林幸雄 |
公開 / 更新 | 2010-04-25 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 58 ページ(500字/頁で計算) |
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その日の午後も古賀はきちんと膝を重ねたまゝそこの壁を脊にして坐つてゐた。本をよむことができなくなつてからといふもの、古賀には一日ぢゆうなにもすることがないのだ。終日ぽつねんとして暗やみのなかにすわつてゐるばかりである。時々彼は立上つて房のなかを行つたり來たりする。わづか三歩半で向ふの壁につきあたるやうな房のなかなのだ。一分間に十往復とすると、一時間には六百囘、距離にすると、一里ちかくになる、などと考へながら古賀はあるく。しかしぢきに頭のなかがぐるぐるとまはつてくる。そこで彼はまたすわり、こんどは塵紙を引きさいて紙縒をよりにかゝる。途中で切らないやうにこの粗惡なぼろぼろな紙で完全な紙縒をよるといふことが、しばらくのあひだ彼をよろこばせるのだ。指先がひりひりするやうになつてからはじめて彼は手を休め、いろんなもの思ひにふける。頭が疲れてくると、また立上り、手さぐりで掃除をしたり、狹い房の四方の壁に氣づかひながら體操をしたりする。――朝のうち、古賀はいくどかそんなことをくりかへし時間を相手に必死の組打ちをするのであつた。しかし――あらゆるたゝかひののちに、結局はやはり壁に脊をもたせ、茫然としてすわるよりほかにはないのである。
――古賀は顏をあげて高い窓とおもはれるあたりに向つて見えない目を見張つた。その年の十月といふ月ももう終りに近づいてゐた。今日は朝から秋らしくよく晴れた小春日和のあたゝかさが、光を失つた彼の瞳にもしみるおもひがするのである。日は靜かにまはつて彼の脊をもたせてゐるほうの壁にもう明りがさしてゐる時刻である。手をうしろへまはしてさぐつてみると、はたしてほんのわづかの廣さではあつたが、つめたい石の壁がほのかなぬくもりをもつてその手に感じられるところがあつた。古賀はすわつたまゝ靜かにそこまでからだをずりうごかして行つた。高い窓からわづかにもれてゐる秋の陽ざしのなかにはいると、古賀の眼瞼には晴れ渡つた十月の空や、自分の今すわつてゐる房のすぐ前の庭に、日に向つて絢爛なそのもみぢ葉をほこつてゐるにちがひない、一本の黄櫨の木などがおのづからうきあがつてくるのであつた。陽は彼の垢づいた袷をとほしてぬくもりを肌につたへ、彼はしばらくのあひだわれ知らずうつらうつらとした。長いあひだ忘れてゐた、ふしぎなあたたかい胸のふくらみを感じるのであつたが、同時にさういふ自分の姿といふものがかへりみられ、秋の日の庭さきなどでよく見かける、動く力もなくなつて日向にぢつとしてゐる蟲の姿に似たものをふつと心に感じ、みじめなわびしさに胸をうたれるおもひであつた。――ちやうどその時、向ふの廊下をまつすぐにこつちへ向いてくる靴のおとがきこえてきた。
午後になるとこゝの建物のなかはひつそりと靜まりかへるのであつた。朝は、こゝの世界だけが持つてゐるいろいろなものおとが、――役人たちのののしりわ…