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乞食の名誉
こじきのめいよ |
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作品ID | 47403 |
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著者 | 伊藤 野枝 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」 學藝書林 2000(平成12)年3月15日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | Juki |
公開 / 更新 | 2013-07-02 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 38 ページ(500字/頁で計算) |
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一
深い悩みが、其の夜も、とし子を強く捉へてゐた。予定のレツスンに入つてからも、Y氏の読みにつれて、眼は行を逐ふては行くけれど、頭の中の黒い影が、行と行の間を、字句の間を覆ふて、まるで頭には入つて来なかつた。払い退けやうと努める程いろ/\不快なシインやイメエジが、頭の中一杯に広がる。思ひ出し度くない言葉の数々が後から後からと意識のおもてに、滲み出して来る。其処に注意を集めやうとしてゐるにもかゝはらず、Y氏が丁寧につけてくれる訳も、とかくに字句の上つ面を辷つてゆくにすぎなかつた。
レツスンが済むと、何時ものやうに熱いお茶が机の上に運ばれた。子供はとし子の膝の上に他愛なく眠つてゐた。快活なY氏夫妻の笑顔も其の夜のとし子には、何の明るさも感じさせなかつた。小さなストーヴにチラ/\燃えてゐる石炭の焔をみつめながら、かたばかりの微笑を続けてゐる彼女は、其のとき惨めな自分に対する深い憐憫の心が、熱い涙となつて、今にも溢れ出さうなのをぢつと押へてゐたのだつた。
外は何時か雪になつてゐた。通りの家々はもう何処も戸を閉めて何処からも家の中の燈は洩れて来なかつた。街燈だけがボンヤリと、降りしきる雪の中に夜更けらしい静かな光りを投げてゐた。無理々々に停留所まで送つてくれたY氏と、言葉少なに話しながら電車を待つてゐる間も、とし子の眼には涙が一杯たまつてゐた。矢張りあの家に帰つてゆかなければならないと思ふと情なかつた。もう此のまゝに帰るまいかとさへ思つて来た家に、どうしてもトボ/\この夜更けに帰つてゆかなければならない。
『こんな時に、親の家でも近かつたら――』親の家――それもとし子には思ひ出せば苦しい事ばつかりだつた。三百里も西の方にゐる親達とは、もう永い間音沙汰なしに過して来た。それも彼女自らが叛いて、離れて来たのであつた。真つ直ぐに、自分を立て通したいばかりに、親達の困惑も怒りも歎きも、悉てを知りつくしてゐながら、強情にそれを押し退けて再度の家出をして後は、お互ひに一片の書信も交はさなかつた。そして全くの他人の中での生活に、とし子は迫害され艱難に取りまかれた。けれど、すべては最初から覚悟してゐた事であつた。彼女は本当に血が滲むほど唇を噛みしめても、その艱難には耐へなければならないと思つた。その苦しい生活がもう二年続いた。そして、此の頃とし子は自分の生活を省みる度びに、其処に余りに多くの不覚な違算を発見しなければならなかつた。その上に猶思ひがけない他人の、何の容赦もない利己心の餌である事を忍ばねばならぬ奇怪な、種々な他人との『関係』が、此の頃よく肉親と云ふ無遠慮な『関係』の人々を思ひ起さすのであつた。けれども、そうした境界におしつけられて思ひ出すことも、とし子には辛らい事の一つであつた。それでも、今かうして、本当に嫌やでたまらない彼の他人の冷たい家の中に、頑な心冷たい気持…