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惑ひ
まどい
作品ID47409
著者伊藤 野枝
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」 學藝書林
2000(平成12)年3月15日
初出「新日本 第八巻第一〇号」1918(大正7)年10月1日
入力者門田裕志
校正者Juki
公開 / 更新2013-10-17 / 2014-09-16
長さの目安約 52 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



『本当にどうかして貰はないぢや困るよ、明日は是非神田の方に出掛けなきやならないんだからね』
 母親はさう云つて谷の生返事に、頻りに念を押してゐた。と云つて、彼女は決して、谷をあてにして念を押してゐるのではないと云ふ事は、次の間で聞いてゐる逸子にはよく解つてゐた。そして、また苦しい金策をしなければならないのだなと思ふと何んとも云へない嫌やな気持に圧し伏せられるのだつた。けれど、嫌やだと云つて素知らぬ顔に済ませる訳けにはどうしてもゆかなかつた。どうにか当てをさがさなければならないのであつた。けれど、逸子にしても、此の毎月々々の極まつた入用だけの金にもこと欠いて苦しみ通してゐる際に、たとへ僅か五円ばかりの金と云つても、屹度出来ると云ふあては、何時も馳け込む龍一の処をおいて他にはまるでなかつた。そして本当の処は、始終の事なので龍一の処にも、さう/\は行きかねるのだつたけれど、是非にと云ふ事になれば、どうと云つて、他に仕方はないので、矢張り其処にでも行くより他はなかつた。
『何にも明日に限つた事ぢやないんだらう? 神田なら――』
 谷は何時ものやうに気のりのしない調子で相手になつてゐた。
『そんな呑気な事云つちや困りますよ。もう此の間から行かなきやならない筈のが、のび/\になつてるんぢやないか。明日はどうしても行く筈にしてあるんですよ。』
『行く筈にしてゐたつて、お母さんだけ其のつもりでも、俺の方ぢやそんな筈は知らないんだからなあ。金がないと行けないのかい。』
『あたり前ですよ、そんな事。』
『俺だつて別にあてがある訳ぢやないんだから、屹度出来るかどうか分らないよ。』
『それぢや困るぢやないか。偶にたのむんだもの、何んとかしてくれたつてよささうなもんだね、先刻からあんなに頼んでるぢやないか?』
『出来ればどうかするよ。だけど何もさう神田に行くのに大騒ぎする事はないぢやないか、大した用があるんぢやなし、遊びに行くのに――』
『お前はそんな事を考へてるから、いゝ加減な返事ばかりしてゐるんだね。誰がわざ/\肩身のせまい思ひをして遊びになんか出かけるものか。お母さんはいくらおちぶれても、長いつき合ひの人達に義理を欠くやうなことをするのは御免ですよ、第一お前の恥になるぢやないか。』
『俺は恥にならうと何しやうとちつともかまはないよ。お母さんももういゝ加減にあんな下だらない交際は止めて仕舞つちやどうだい?』
『余計なお世話だよ、そんな事までお前の指図を受けてたまるもんかね。それよりは少し自分の事でも考へて見るがいゝや。何だい本当に、親に散々苦労をさして、一人前になりながら、たつた一人の親を楽にさす事も知らないで、大きな顔をおしでないよ。親を苦しめる事ばかりが能ぢやないよ、何時までも/\ブラ/\してゐて、世間の手前も恥かしい。私しやお前のお蔭で何処に行つても、肩身を狭めなきや…

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