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目撃者
もくげきしゃ
著者国枝 史郎
文字遣い新字新仮名
底本 「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」 作品社
2005(平成17)年9月15日
初出「探偵」1931(昭和6)年10月
入力者門田裕志
校正者hitsuji
公開 / 更新2020-03-22 / 2020-02-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ミラは何うしても眠れなかった。
 夜も更けて真夜中を少し廻った頃だったが、二階では彼女の息子のウィリアムと嫁のエフィが先刻から喧嘩を続けているので、ミラは一時間余りも床の中で眼をぱちくりさせていた。彼女はウィリアムが腹を立てたが最後、手に負えぬことを知っているだけに余計心配でならなかった。彼女の耳にはウィリアムが床をばたばたさせながら、切りに喚いている声や、エフィの途切れ途切れに言う言葉が遠慮なく聞えて来た。エフィの急所を衝く言葉は相手を、益々苛立たせるばかりで到底ウィルを宥める所ではなかった。
 ミラは床から起きて鏡台の上の燈火を点けた。空箱に薄手の模様の繻子をかけ、安物の鏡を置いたばかりのお手製の鏡台だが、彼女はその前に腰掛けると、頭髪用のブラシを取上げて、何時もの様に髪にブラシをかけながら昂ぶる神経を静めようとした。気が付いて見ると、手先はぶるぶると顫えブラシをちゃんと持つにも骨が折れたが、併しブラシの剛い毛で髪を梳いてゆく中に彼女は次第に心が落付いて行くのを感ずるのだった。
 二階からは最早ウィルの喚く声は聞えて来なかった。二人の声は鈍重な低声に変って行った。
 彼女は髪を梳きながら見るとはなしに鏡に映る己が顔を眺めていた。悴と嫁の絶えない争論の為めか新に幾本目かの皺が面にはっきり刻まれていたが、でも彼女は未だまんざら捨てたものではないと独りで決めていた。頭髪は少女時代と少しも変らず今だに烏の濡羽のように艶々としている。やがて彼女は両手を膝の上に揃えると暫くの間凝っと項垂れていた。そして結局はジョン・バートンと結婚して悴と嫁にこの家を明渡すより外いい方法はあるまいと考えた。今さし当って縁付くにしても、ジョン・バートンは夫として彼女が胸に描いた理想の人物とは聊か隔りがあったけれど、でも然うすれば少くともきりなしに起る悴夫婦の喧嘩からは遠のくことが出来る。全くこんな事が続いた日にはこれからの余生を悲劇に終らせる様なものだった。
 現に今夜等も、ウィルは長らく家をあけて帰って来たのだったが、喧嘩が始まるまで彼女は悴の帰宅したのに気がつかなかった。恐らく今夜もウィルは夜のあけない中に家を出て行くことだろう。喧嘩の後には彼は何時もそうするのが常だったから。全く何時襲うかも知れない嵐のことを考えると、彼女はいても立っても耐まらなくなった。
 その時、二階から又してもウィルの憤怒の叫とエフィの金切り声が聞えてきた。
「そんな事があるものですか。いいえ、ウィル」
 エフィの声は噎泣きに終った。
 ひょっとするとウィルはエフィを殺しはすまいかと思うと、ミラは突然立上って階段を駆け上った。彼女は扉口に立停った。そしてウィル――彼女の息子のウィルがエフィの上に蔽いかぶさる様に屈んで、彼女の喉を両手で堅く絞めつけているのを見た。エフィの顔は凄じく紫色に変っていた。彼女は死…

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