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犠牲者
ぎせいしゃ
作品ID47473
著者平林 初之輔
文字遣い新字新仮名
底本 「「新青年」傑作選 幻の探偵雑誌10」 光文社文庫、光文社
2002(平成14)年2月20日
初出「新青年」博文館、1926(大正15)年5月号
入力者川山隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2009-04-12 / 2014-09-21
長さの目安約 38 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一、小さな幸福

 中学の課程すらも満足に了えていない今村謹太郎にとっては、浅野護謨会社事務員月給七十五円という現在の職業は、十分満足なものであった。自分のような、何処といって取柄のない人間を、大金を出して雇ってくれている雇主は世にも有り難い人であると、彼はいつも心から感謝していた。
 彼は、それだけの給料で、ささやかながらも、見かけだけは堅牢な家庭生活を築き上げていた。彼の郷里である山陰道の農村から、殆んど富士山も見ないようにして、まっすぐに彼の家庭へとびこんで来た細君は、村の生活と、彼等二人の家庭生活とのほかには、世間のことは文字通り何も知らず、彼等の生活とちがった人生が、此の世の中にあり得るなどと考えたことすらもなかった。夫婦の生活というものは、月収七十五円の範囲内で営まるべきものと神代の昔からきまっているように想像していた。従って、現在の生活に満足している程度は、今村と同様若しくはそれ以上であり、今村が雇主に感謝していると同じように、彼女は、百姓娘の自分を人の羨む東京へつれて来て養ってくれている今村に、心からの感謝を捧げていたのである。
 多くの下級事務員の生活がそうであるように、今村の生活には、一年じゅう何の変化もなかった。毎日時間をきめて、自宅と会社との間を往復すべく運命づけられた機械のような生活であった。しかし、彼は、それを当然であると考えていた。これは、自分の生れない前からきめられていたことで今更らどうにもしようがないのみならず、変化などがあってはそれこそ却って大変だと考えていた。このまま、月給七十五円の事務員として一生涯をおわっても、そんなことは一向彼には苦にならなかった。むしろそれをのぞんでいる位だった。それで結構一人前の生活をしてゆくことができるという驚くべき自信を彼はもっていた。物価が騰貴すれば騰貴しただけ生活費を切り詰めればよい。現在六畳と二畳とで十五円の家賃は、六畳一室の室借にすれば少なくも三円の室代を切りつめることができると彼はしじゅう、万一の場合の覚悟をきめていた。しかも此の自信を彼は現在の生活によって着々と実証していた。四年の間に積み立てられた貯金は、既に二百七十円なにがしという額に達していた。そして、この貯金は、毎月少なくとも十円位の割合で増加していたのである。
 この小さな財産の上に、今村の一切の希望は築きあげられていた。郊外のどこかに、六畳一室に三畳くらいの小ざっぱりした家を建てよう、月に一度位は女房とやがてできるであろう子供とをつれて洋食の一皿も食べに出かけよう、年に一度くらいは芝居も見物したい――安月給取の頭の中を毎日のように往来するこうした小さな慾望が、今村には現実の慾望とはならずに、遠い未来の希望として、描かれたり消されたりしていたのである。ことに家を建てるという考えは、幾度び彼の頭の中で咀嚼され、反…

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